日陰の欄外

 閉店十五分前、八代小夜が古書喫茶「木陰」で開いたのは、昭和の団地向けに作られた園芸入門だった。

 窓辺の鉢植えを枯らさない方法が、素朴な挿絵とともに並んでいる。けれど前の持ち主は、本文より余白へ熱心に書き込んでいた。「午前九時、ここまで光」「夏は簾を一枚」「咲かない年も葉は増えた」。日当たりの悪い部屋だったらしい。巻末には、日陰に強い草花だけが青鉛筆で囲まれていた。

 小夜の画面には、社内の昇格試験を受けるかどうかを尋ねるメールが残っている。受ければ管理職候補になれる。同期は祝ってくれたし、母には「ここで断ったら次はない」と言われた。

 ただ、小夜が好きなのは、会議で人を動かすことより、商品ページの一文字を直し、検索されない情報を拾い、誰にも気づかれない不便を減らす仕事だった。会社には専門職の小さなコースもある。給与の上がり方は遅く、肩書も目立たない。それでも申請書だけは、鞄に入れてきた。

 店内の客は小夜ひとりだった。店主はカウンターのランプを磨き終えると、彼女が会計へ持ってきた本を窓際へ置いた。西日はもうなく、天井灯も本棚に遮られている。暗くて検品できないのでは、と小夜が思ったとき、店主は卓上ランプの首を曲げた。光は表紙ではなく、青鉛筆で囲まれた「耐陰性植物」の頁だけを照らした。

 破れを確かめ、値札を外し、店主は薄い緑の紙で本を包んだ。包装紙には、日焼けしたような濃淡があった。均一な色の面を表へ出さず、いちばん薄いところを正面にして折る。そこだけが、かえって葉の形に見えた。

 小夜は席へ戻り、昇格試験の辞退を入力した。理由欄には長い弁解を書かず、「専門職コースへ申請します」とだけ記す。

 送信後も、胸の中は少し暗かった。これまで、明るい場所へ出ることだけが前進だと思っていた。けれど、誰かが使いやすくなるまで一文字を直す時間も、小夜が選んで育ててきた仕事だった。暗い場所に置かれたものが、育っていないとは限らない。

 店主がランプを消す前に、小夜は包みを抱え、専門職申請書の提出ボタンを押した。