明日から借りる五分
時計修理店の閉店箱から、銀色の小さなボタンが出てきた。
押すと、世界の時計が五分だけ止まり、押した人だけが動ける。
ただし借りた五分は、翌朝の自分から差し引かれた。
会社員の父は、最初それを便利に使った。
乗り遅れそうな電車へ五分。
会議資料の直しに十分。
娘の迎えへ間に合わせるため、さらに十五分。
翌朝は、目覚ましが鳴ったと思った瞬間に五分、十分、十五分が飛び、気づけば遅刻寸前だった。
それでも夜の失敗を取り返せるなら安いと思った。
娘の発表会の日、父は仕事を早く終える約束をした。
だが直前に問題が起きた。
ボタンを押し、止まったオフィスで一人、書類を直した。
五分、十分、三十分。
会場へ着いたとき、最後の拍手にぎりぎり間に合った。
「見てた?」
娘が尋ねた。
父は嘘をつけず、首を振った。
「でも、拍手はした」
娘は笑ったが、その笑顔は少しだけ遠かった。
翌朝、借りた三十分が一度に差し引かれた。
父が目を開けると、食卓には冷めた味噌汁と、娘の書き置きがあった。
「先に学校へ行きます。昨日の曲、朝ならもう一度弾けたのに」
父は初めて、失ったのが時計の三十分ではなく、娘がもう一度こちらを向いてくれる朝だったと知った。
それでも仕事ではボタンが必要になった。
押せば間に合う。
間に合うから、周囲はさらに仕事を任せる。
父は毎朝、家族より遅く目を覚ますようになった。
娘の髪型が変わった日も、妻が体調を崩した朝も知らなかった。
ある夜、また問題が起きた。
上司が「君なら間に合わせられる」と書類を置いた。
父は銀色のボタンへ手を伸ばし、やめた。
「今日は無理です。手伝ってください」
口にすると、同僚が二人残った。
三人で作業しても発表会には間に合わなかったが、父は家へ帰った。
娘はもう眠っていた。
ボタンを枕元へ置き、翌朝を待った。
普通の時刻に目を覚ます。
台所で娘がパンを焼いていた。
「曲、もう一度弾く?」
父が聞くと、娘は少し考え、うなずいた。
朝の五分は止まらなかった。
パンは焦げ、妻は急かし、曲の途中で登校時刻になった。
それでも父は最後の一音まで聞いた。
銀色のボタンは時計修理店へ返した。
店はもう閉まっていたので、郵便受けへ入れた。
翌朝は一分も飛ばなかった。
時間は足りないままだった。
けれど足りないと言える相手がいる日は、明日から借りなくても、今日を分け合えた。