明日の私にも、会ってください
叶井未鈴は、眠るたびに前日の記憶を失う。
事故から目覚めた彼女の時間は、大学二年の六月で止まっていた。病室の壁には三十二歳の自分の写真と、〈あなたは結婚しています〉という紙が貼られている。だが毎朝、未鈴は紙を剥がし、ベッド脇の男を警戒した。
「誰ですか」
「久世岳人。君の夫です」
「証拠は?」
「君が寝言で俺を『いびき大王』と呼ぶ」
「捏造できます」
「左足の小指に、洗濯籠をぶつけた傷がある」
「それは夫でなくても見れば分かります」
最初の頃、岳人は写真や結婚証明書を並べ、十二年間の出来事を説明した。初めての旅行、狭い部屋で食べた焦げた餃子、子どもを持たないと二人で決めた夜。だが情報を渡すほど、未鈴は泣いた。
知らない人生を自分のものとして受け取るのは、他人の服を無理に着せられるようで怖い、と彼女は言った。
それから岳人は、夫を名乗るのをやめた。
「誰ですか」
「大学の同級生。お見舞いに来た」
「毎日?」
「暇なんだ」
「十二年後の同級生が、毎朝七時に?」
「かなり暇なんだ」
二人は初対面のように話した。未鈴は昔と同じ場所で笑い、昔とは違う本を好んだ。岳人は、昨日の彼女が嫌った話題を今日は避け、昨日の彼女が好きだった紅茶を今日も用意した。
ある朝、未鈴が訊いた。
「私たち、本当はどんな関係ですか」
岳人は迷ってから、壁の紙を見た。
「君が決めていい関係だよ」
未鈴は長いあいだ彼を見つめた。
「では今日は、少し好きな人にします」
「少し?」
「明日になったら忘れるので、重くすると損です」
その日、二人は病院の庭を歩いた。夕方、未鈴はノートに翌朝の自分への手紙を書いた。
翌朝、彼女はやはり岳人を知らなかった。
ノートを読み、眉をひそめる。
〈この人は夫だと言い張らない。だからたぶん、本当に夫です〉
「ずいぶん雑な証明ですね」
「書いた本人に言ってくれ」
「もう一つあります」
未鈴はページの隅を指した。
〈明日の私にも、会ってください。私は毎日忘れるけれど、この人は毎日、私を初恋にしてくれる〉
岳人は返事の代わりに、いつもの紅茶を差し出した。
未鈴は一口飲み、顔をしかめた。
「砂糖、一つ多いです」
「昨日はそれが好きだった」
「今日の私は違います」
岳人は笑って、新しいカップを淹れに立った。
彼女の記憶には残らない。
けれど彼の人生には、毎朝、同じ人を新しく愛し直す日が増えていった。