明日の長芋は片面から

井坂蒼士が居酒屋「熾火」に入ったのは、社員証を会社へ返した帰りだった。明日の九時には、八人しかいない金属加工会社の新しい社員証を受け取る。

 十二年ではなく、五年勤めた大手複合機メーカーを辞めた。転職先では法人営業を任されるが、年収は下がり、名の通った看板もなくなる。両親には「将来性のある会社だ」と説明した。嘘ではない。ただ、資金繰りがあと二年ほどだと面接で聞いたことは言っていない。

 送別の席で同期から『本当にそこへ行くのか』と三度聞かれた。蒼士は三度とも、面白そうだから、と答えた。面白さだけで住宅ローンも老後も決まらないことは、自分がいちばん分かっている。

 蒼士自身も、なぜ採用されたのかを考えると落ち着かなかった。社長は「大手とのパイプに期待している」と言った。けれど、蒼士が持っているのは名刺の束であって、人を動かす力ではない。明日から早速、以前の取引先へ電話をかけるよう求められるかもしれない。

「何か、歯応えのあるものを」

 店主は長芋を厚い輪切りにし、鉄板へ並べた。水分が弾けて、じゅっと低い音が続く。皮の近くから土の匂いが立ち、刷毛で醤油を塗ると香ばしさが狭い店へ広がった。片面には細かな焼き目がつき、反対側はまだ白い。

 蒼士はスマートフォンで、転職先の社長から届いた予定表を開いた。朝礼のあと、営業方針の打ち合わせ。その次に「主要顧客候補の確認」とある。

「最初から数字を出せなかったら、期待外れですよね」

 店主は長芋を一枚だけ返した。

「片面ずつだ」

 それだけ言って、残りにも順番に箸を入れた。

 皿には梅肉が少し添えられていた。蒼士は、明日の打ち合わせで顧客名を並べる前に、工場を見せてほしいと頼むことにした。どんな精度で、何を作れる会社なのかを、自分の言葉で説明できるまでは電話をかけない。期待を遅らせることになるし、社長に顔を曇らせられるかもしれない。それでも、借りた看板を別の看板へ掛け替えるだけにはしたくなかった。

 焼き目のついた長芋は表面だけ硬く、噛むと中から淡い熱がほどけた。梅の酸味は鋭かったが、醤油の焦げた甘さが舌に残った。