明日付の退職届

未来から届く通知は、たいてい役に立たない。十七年後の歯科予約や、まだ知らない店の閉店案内や、誰と撮ったか分からない写真の整理期限。荒磯錦も、画面の隅に現れるそれらを広告のように消してきた。

四十二歳の月曜、会社の端末に一通だけ、見過ごせない通知が出た。

〈荒磯錦様 退職届を受理しました。最終出勤日は明日です〉

錦は経理課に十九年いた。転職歴も、長い休暇も、上司への反抗もない。決めることが苦手で、昼食の定食さえ同僚と同じものを頼んだ。退職届を書く理由など、どこにもなかった。

その日は一日、未来の原因を探した。健康診断の結果か。会社の倒産か。自分でも知らない失敗か。ところが夕方、部長が会議室へ錦を呼び、決算表の数字を一つだけ動かしてほしいと言った。

「来期に戻す。誰も困らない」

錦は十九年分の癖で、はい、と言いかけた。だが通知の日付を思い出した。未来が退職を命じたのではない。未来の自分が、退職届を出したというだけだ。

「困る人はいます。私です」

声は震えた。部長の顔が固まった。錦は席へ戻り、初めて自分で選んだ文面を白い紙へ書いた。

翌日、退職届は受理された。

その後の暮らしは、通知ほど簡潔ではなかった。再就職先は三か月で辞めた。貯金は減り、眠れない夜もあった。それでも錦は、小さな店の帳簿を手伝う仕事を始めた。数字をきれいに見せるのではなく、数字の困りごとを店主と一緒に考える仕事だった。

最初の客は、赤字を隠したがるパン屋だった。以前の錦なら指示どおり帳尻を合わせただろう。今度は店主と夜まで話し、売れ残りの数を一日ずつ並べた。営業時間を短くすると赤字は減り、店主は久しぶりに娘と夕食を食べられたと言った。錦は、正しい数字には人を責める以外の使い道もあるのだと知った。

五年後、端末に〈契約更新のお知らせ〉という未来通知が届いた。差出人は、今いちばん大きな取引先だった。

錦は開かずに消した。

明日の契約を決めるのは、明日の自分でいい。そう思えるようになったことだけが、あの通知から受け取った本当の退職金だった。