最初の一音
冬木迫汐里が薬局のレジへ並んだのは、閉店五分前だった。
籠には洗剤、牛乳、冷凍食品。後ろには、補聴器用の電池を一つだけ握った老人がいた。何度も腕時計を見ては、包装の文字を目へ近づけている。
「お先にどうぞ」
汐里が言うと、老人は慌てて首を振った。
「いや、順番ですから」
「私はこんなにあります。そちらは一つでしょう」
老人はしばらく迷い、頭を下げて前へ出た。
会計の途中、店員が電池の型を確認した。老人は時計を見て、ますます落ち着かなくなる。
「七時から、孫の演奏会なんです」
小学校の音楽会が配信されるらしい。孫は初めて、一人でバイオリンを弾く。老人は朝から楽しみにしていたが、夕方になって補聴器の電池が切れた。
「映像だけでも見られるんですが、あの子が昨日、電話で聞いたんです。『最初の音、聞いてくれる?』って」
店員は会計後、頼まれてもいないのに包装を開け、交換を手伝った。
老人が補聴器を耳へ入れた瞬間、店内放送の音楽に顔を上げた。
「聞こえる」
その声が、驚くほど明るかった。
薬局を出たところで、老人のスマートフォンが鳴った。画面の向こうから子どもたちのざわめきが聞こえる。老人は自動ドアの横へ立ち、何度も音量を確かめた。
やがて、小さなバイオリンの音が流れた。
最初の一音は、少しかすれた。老人はそれでも、画面へ向かって大きくうなずいた。
「聞こえてるよ」
列にいた客たちは、追い越した一人を責めることなく、少しだけ足を止めた。汐里も買い物袋を抱えたまま、その一音が終わるまで動かなかった。
帰り道、汐里は祖父へ電話をかけた。
同じ話を何度も繰り返す祖父との通話が面倒で、最近は短いメッセージだけで済ませていた。
「どうした、こんな時間に」
「声、聞こえるかなと思って」
祖父は笑ったあと、今日あった出来事を最初から長々と話した。汐里は急かさず聞いた。
譲ったのは、レジの順番一人分だった。
けれどその数分が、誰かには一生覚えている最初の一音になり、汐里には、まだ聞ける声を聞き直す夜になった。