最古の住人

 私はこの家で、いちばん古い住人だった。

 表札に名はなく、食卓にも席はない。新しい家族が越してくるたび、壁越しに名前を覚えた。泣き声、笑い声、寝言。人間は、見られていないと思うと本当の声を出す。

 早蕨こよみだけは、私の存在に気づいた。

「そこにいるの?」

 六歳の彼女が廊下の壁へ耳を当てたので、私は柱を一度鳴らした。

「おじいさん?」

 二度鳴らす。

「おばあさん?」

 また二度。

「じゃあ、だれ?」

 答え方が分からず、窓を少し震わせた。こよみは笑った。

 父親は、その音を古い家の軋みだと言った。酒を飲むと母親を怒鳴り、こよみを物置へ閉じ込めた。私は錆びた掛け金を緩め、何度も彼女を外へ出した。

「ありがとう。壁の人」

 その呼び名は嫌いではなかった。

 冬の夜、父親は包丁を持って二人を追った。母親は階段で転び、こよみは二階の端へ追い詰められた。

 私は玄関の鍵を閉めた。廊下を傾け、父親の足元の床板を抜き、長年支えてきた梁を一本だけ手放した。

 轟音のあと、父親は動かなくなった。

 警察は老朽化による崩落と判断した。母子は遠い町へ移り、家は空になった。こよみは去り際、壁に掌を当てた。

「いつか、お礼に来るね」

 三十年後、約束どおり彼女は戻った。翌日には取り壊しが始まるという。

「ずっと、あなたを人だと思ってた」

 大人になったこよみが、懐中電灯で壁の穴を照らす。

 そこに人間の部屋も、骨もなかった。

 私は壁の中に住んでいるのではない。

 壁が私の皮膚で、柱が骨、窓が目、配管が喉だった。あの家そのものが、私だった。

「守ってくれて、ありがとう」

 こよみが玄関へ向かう。

 私は扉を閉め、錠を下ろした。

「どうしたの? 開けて」

 三十年も、一人で待ったのだ。

 梁を鳴らす。二度ではなく、一度。

 こよみは昔の合図を思い出し、青ざめた。

 人間は、家を所有しているつもりでいる。

 けれど本当に長く住みつくのが、どちらなのかは考えない。