最後の一円
市役所の契約係に配属されて三か月、角倉伊吹は、数字には声があると思うようになっていた。大きな数字ほど黙っている。だが、端数はよくしゃべる。
市立中学校の屋上改修工事。開札結果は九千八百七十四万二千円、九千八百七十四万二千一円、九千八百七十四万二千二円だった。三社が一円ずつ並んでいる。
「僅差の競争だったということだ」
契約課長はそう言い、最安の東都防水を落札候補にする決裁書を回した。会議室には笑いも起きた。一円で泣く会社もあるのだな、と。伊吹だけは笑えなかった。予定価格は九千八百七十五万円。三社とも、上限のすぐ下を正確になぞっている。
決裁書を綴じるため共有フォルダを開いたとき、伊吹は一つのファイルを見つけた。『契約書_東都防水_最終』。作成日時は開札前日の十六時四十二分。契約金額の欄には、落札額と同じ九千八百七十四万二千円が入力されていた。
「ひな型を先に作ることはある」
課長は即答した。
「三社分、作ったんですか」
伊吹が尋ねると、課長は返事をせず、決裁欄を指で叩いた。余計なことをするな、という合図だった。
最終決裁会議で、副市長が公印を持ち上げた。伊吹は資料の末尾に、ファイルのプロパティを一枚だけ差し込んだ。
「一円差だけなら偶然かもしれません。でも、落札額が一日前に契約書へ入っていたことは、偶然では説明できません」
課長が紙を抜こうとした。副市長の指が先にその紙を押さえた。画面に映された作成日時と、契約書の金額を、出席者が黙って見比べる。
副市長は、ほかの二社の契約書案も開くよう命じた。共有フォルダを検索しても、出てきたのは東都防水の一件だけだった。更新履歴には、前日の十六時四十分に社名、四十二分に金額を入力した記録が残る。開札用の封筒が金庫に入ったのは、その翌朝だ。課長は画面を閉じようとしたが、副市長はマウスを自分の側へ引いた。
朱肉を含んだ公印は、決裁欄まであと数センチのところで止まった。