最後の右折

 父が免許を返す日、私は実家まで車で迎えに行った。

 八十歳を前にして、車庫の柱へ二度こすった。家族会議では「まだ運転できる」と言い張ったくせに、返納の予約は自分で取っていた。

 警察署からの帰り、助手席の父は落ち着かなかった。

「次の信号を右」

「ナビは左って言ってる」

「夕方は右が早い」

「今日は急いでない」

「ブレーキが遅い」

「運転しない人は黙って」

 言いすぎたと思ったが、父は窓の外を向いた。

 そのまま十分ほど走り、私が道を間違えた。いつも父が曲がっていた交差点を通り過ぎたのだ。

「戻る?」

「いや。この先からでも帰れる」

 父は膝の上の小さな地図を開いた。書店で売っている古い道路地図に、赤や青の線が何本も引かれている。

 赤は母を病院へ運んだ道。

 青は私を塾や駅へ送った道。

 緑は孫の発熱で休日診療所へ走った道。

「そんなの、まだ持ってたの」

「忘れたら困ると思って」

「もう運転しないのに?」

 父は地図を閉じた。

「免許を返したら、役に立つ道まで全部なくなる気がした」

 私は路肩の駐車場へ車を入れた。

「私、父さんに送ってもらった回数、数えたことないよ」

「数えるものじゃない」

「じゃあ返す回数も数えない。病院も買い物も、呼んでくれたら行く」

「お前にも予定があるだろ」

「断る日もある。そのときはバスかタクシー。一人で決めずに相談する」

 父は不満そうだった。

「迎えを頼むのは、運転より面倒だ」

「練習すればいい。初心者なんだから」

「最初は、駅まで迎えに来てくれ、でいい」

 父が少し笑った。

 帰り道、次の交差点で私は尋ねた。

「右と左、どっちが景色いい?」

 父はすぐには答えず、地図を広げた。

「右。遠回りだが、川が見える」

「じゃあ右」

 曲がると、夕日が水面を長く照らしていた。

 父はもうハンドルを握らない。

 それでも助手席から、急がない道を選ぶことはできる。

 実家へ着くまで、父は三度道を教え、私は二度だけ従った。

 それくらいが、これからの親子にはちょうどよかった。