最後の炊飯予約
共同キッチンの床には、三人分の段ボールが島のように並んでいた。冷蔵庫は空なのに、炊飯器だけが湯気を吐いている。
「最後の晩くらい外で食べればよかったな」
飯泉央紀が、茶碗を三つ出した。
「敷金で揉めてる人の台詞じゃない」
蓬田透子は笑った。笑うと、喧嘩の続きができなくなる。三年間、そうやって大事な話を先延ばしにしてきた。
沢渡柊介は、炊き上がった米へ缶詰の鯖を混ぜた。調理師学校を出たら三人で店をやろう、と言い出したのは彼だった。透子がロゴを描き、央紀が会計を覚えた。店名まで決めたのに、通帳には開業資金ではなく、退去清掃費だけが残った。三人で貯めるはずの口座は、誰かが困るたびに取り崩され、そのたび「店は逃げない」と言い合った。逃げていたのは店ではなく、三人のほうだった。
「俺、山の旅館に入る。住み込み」
柊介が言った。
「聞いてない」
「今、言った」
透子は箸を置いた。
「私は仙台。会社の寮。デザインじゃなくて総務だけど」
央紀は二人を順に見たあと、炊飯器の蓋を閉めた。
「俺は戻るよ。親父の店、畳むのを手伝う。その先は決めてない」
三人とも、かつての約束を裏切ったような顔をしなかった。責めれば、まだ同じ未来を欲しがっていることになるからだ。
鯖ご飯は少し濃かった。透子が水を足そうと立ち、もうコップを箱に詰めたことを思い出す。柊介は紙コップを三つ並べたが、央紀の分だけ縁が潰れていた。
「店の名前、覚えてる?」
透子が尋ねた。
「忘れた」
央紀が即答し、柊介も「俺も」と続けた。
テーブルの裏には、三人で書いた店名が油性ペンで残っている。誰も見ようとしなかった。
食べ終えると、央紀は習慣で炊飯器の予約ボタンを押した。午前六時半。毎朝、最後に起きる透子のための時刻だった。
「あ」
取り消そうとした指を、透子が止める。
「そのままでいいよ」
明日の朝、ここには誰もいない。米も水も入っていない。それでも暗い表示窓では、六時半だけが赤く光り、三人がまだ同じ朝を迎えるふりをしていた。