最後の裾上げ

住良木絹枝は、母の仕立て店を閉めるため、十二年ぶりに鍵を開けた。

棚の下から、白いウサギが鼻を出した。母が飼っていた「ボビン」だった。預かってくれていた隣人によれば、店へ入るたび、奥の衣装箱を引っかくという。

絹枝は箱を無視した。

事故で車椅子になってから、母とは会っていない。婚約者との式をやめると告げたとき、母は「せっかく縫ったのに」と言った。絹枝には、娘よりドレスを惜しむ言葉に聞こえた。

ボビンが歯で裾布を引っ張った。叱ろうとして衣装箱を開けると、中には完成したウェディングドレスがあった。

立って着るはずだった形とは違う。前丈は短く、背中側の布は長い。座った姿勢で裾が車輪へ巻き込まれず、膝の上へ花の刺繍が広がるよう直されていた。腰の縫い目には、目立たない持ち手までついている。

箱の底に、母の採寸帳があった。車椅子の幅、膝から床までの高さ、着替えるときに腕を上げなくて済む留め方。雑誌の切り抜きや、理学療法士へ宛てた質問の下書きまで挟まっていた。母は会いに来られない娘を、事故の前の型紙へ戻そうとはしていなかった。

頁には、細かな字が並んでいた。

〈絹枝はもう立って着ない。だから立つ人の型紙を押しつけない〉

〈あの子が諦めたのは結婚ではなく、昔の自分に戻ること〉

〈戻らなくていい服を作る〉

最後の頁だけ、途中で終わっていた。

〈裾上げを残す。最後の一針は本人に。母親が人生まで仕立ててはいけない〉

絹枝はその場で泣いた。母の言葉は不器用だった。自分の怒りも、あまりに長持ちした。謝る相手はもういない。

ボビンが膝へ前脚をかけた。絹枝は裁縫箱を開き、針へ糸を通した。母が残した裾を、自分の高さに合わせて縫った。

三か月後、小さな式を挙げた。誓いの言葉の途中、リング係のボビンが籠から脱走し、ドレスの裾へ潜り込んだ。参列者が笑い、絹枝も笑った。

母のドレスを汚したとは思わなかった。

着る人が泣き、笑い、何度も座り直して、服はようやく完成する。

裾のいちばん下には、母の縫い目と絹枝の縫い目が並んでいた。

どちらが上手かは、一目で分かった。

けれど二本とも、同じ明日へ続いていた。