月角鹿は薬草籠を枕にする
収穫祭の広場へ白銀の鹿が飛び込んだ瞬間、楽団の音が途切れた。
枝分かれした角には淡い月光が宿り、踏みしめた石畳から草が芽吹く。王国の守護聖獣、月角鹿。そのはずなのに、今は口から泡を吹き、近づく衛兵へ角を振り回していた。
「凶兆だ! 射手を並べろ!」
隊長の命令に、人々が屋台の陰へ逃げる。
薬草採りのリゼだけは、鹿が右前脚を一度も地面につけないことを見ていた。怒っているのではない。痛みから逃げ場を失っている。
「撃たないで。その子、罠にかかっています」
「素人が聖獣をその子呼ばわりするな!」
笑われても、リゼは薬草籠を置き、両手を見せて近づいた。月角鹿が低く鳴く。角先が頬のすぐ横を通ったが、リゼは足元から目を逸らさなかった。
白い毛の奥に、細い鋼線が食い込んでいる。引きちぎった罠の一部だ。血と泥で見えにくくなっていた。
「怖かったね。もう走らなくていいよ」
持っていた外套を鹿の頭にふわりとかけ、月光を遮る。暗くなると鹿の呼吸がわずかに緩んだ。リゼは鎌の刃を鋼線の下へ滑らせ、一度で断つ。傷を清水で洗い、止血草を噛み潰して布で巻いた。
鹿はまだ震えていた。腹が細くへこみ、祭りの麦菓子の匂いに鼻を動かす。
リゼが自分の昼食だった林檎を差し出すと、月角鹿は警戒しながらも、しゃく、と半分を噛み取った。残りも食べ終えるころには、角の光が穏やかな銀色に戻っていた。
隊長が咳払いをする。
「もう安全なら、神殿へ連れていけ。世話役は我々が選ぶ」
月角鹿はその声を聞くなり、リゼの背後へ回った。そして鼻先で彼女の膝裏を押し、石畳へ座らせる。
次の瞬間、大きな頭が薬草籠ごと彼女の腿に載った。
広場が静まり返る。
リゼの手の甲に、三日月と若葉を重ねた印が浮かんだ。契約を求められているのだと、説明されるまでもなく分かった。
「私でいいの?」
鹿は目を閉じ、返事の代わりに重みを預けた。
指を沈めた首毛は、干した綿より柔らかく、陽だまりを抱いたように温かい。その確かな重さだけで、これまで誰にも信じてもらえなかったリゼの言葉が、ようやく世界に認められた気がした。