朝凪の味噌汁
早蕨未紗が婚約指輪を返した翌朝、港町行きの列車に乗った。
行き先を選んだ理由は、地図の海が広かったからだ。三年一緒に暮らした相手とは、どちらが悪いでもなく、これから欲しい生活が違っていた。それでも別れ際の「仕方ないね」が、胸の奥へ小骨のように残っていた。
泊まった宿は、古い網元の家を改装した小さな旅館だった。
女将は荷物の少ない未紗を見ても何も訊かず、「朝は六時半。眠ければ八時でも」とだけ言った。
夜は波の音が近すぎて、かえって眠れなかった。元婚約者へ送らない文章を頭の中で何度も作り、消した。
翌朝、未紗は六時に目を覚ました。
浜へ出ると、空と海の境目がまだ薄い灰色だった。防波堤で、宿の女将が小さなざるを洗っている。
「早いですね」
「眠れなかった顔ね」
「分かりますか」
「この町では、眠れた人は朝凪を見に来ないの」
女将のざるには浅蜊が入っていた。昨夜、砂抜きしておいたものだという。
「味噌汁、手伝う?」
未紗は宿の台所で、浅蜊を鍋へ入れた。殻が開くたび、こつりと小さな音がする。
「開かないものは?」
「無理にこじ開けない。今日は食べない」
女将はごく普通の調理の話として言った。
味噌を溶くと、磯の匂いが柔らかくなった。
食堂には未紗一人だけだった。白いごはん、炙った海苔、浅蜊の味噌汁。椀を持つと、湯気が頬へ触れた。
一口すすれば、貝の塩気と味噌の甘さが喉を通り、昨夜から固かった腹の底へ温度が戻った。
「別れるとき、もっと言えた気がして」
未紗が呟くと、女将は海苔を折りながら答えた。
「言えなかったことは、言わなくてよかったことかもしれないし、あとで言えることかもしれない。朝ごはん中に決めなくてもいいわ」
食後、未紗は浜をもう一度歩いた。
朝凪の海は動いていないように見えたが、足元では細かな波が砂を濡らし、引いていた。
携帯を開き、長い下書きを全部消す。代わりに、相手へ〈荷物は来週取りに行きます。元気で〉とだけ送った。
返事はすぐ来なかった。それでよかった。
宿へ戻ると、台所から二番出汁の香りがした。
未紗のコートには潮風が染み、唇には浅蜊の塩気が残っている。
仕方ない別れではなく、二人が別々の朝へ進むための別れだったのだと、今はまだ、味噌汁一杯ぶんだけ思えた。