朝日の中の父
母が施設へ移ることになり、娘は古い家を片づけた。
居間の壁には、家族三人で撮った最後の写真がある。父は十年前に亡くなり、母は最近、写真の中の父を自分の兄だと言うようになった。
朝、額を外そうとしたとき、窓から差した光が写真の父の顔へ重なった。
「そのままでいい」
娘は手を止めた。
父の口が、写真の中で確かに動いた。
「何が」
「忘れても、そのままでいい」
光が頬から外れると、父は元の笑顔へ戻った。
娘はカーテンを閉め、開け直した。光がまた父へ当たる。
「お母さん、あなたを忘れてる」
「そうらしいな」
「寂しくないの」
「今は、お前を心配する方が忙しい」
父は、朝日の中でだけ話した。
娘は母へ毎週、昔の話をさせようとしていた。父の勤め先、結婚式の日、娘の誕生日。答えられないたび、母は困った顔をし、娘は少しずつ苛立った。
覚えていてほしいのは母のためではない。自分が三人家族だった証拠を、一人で持つのが怖かったのだ。
「私だけ覚えているの、ずるくない?」
娘が言うと、父は写真の中で肩をすくめた。
「お前が忘れたら、今度は写真が覚える」
「写真は話さないでしょ」
「今、話してる」
思わず笑った。
父は続けた。
「母さんに、私を思い出させなくていい。今日、何が食べたいか聞いてやれ」
「それだけ?」
「今日のことは、今日しか覚えられないかもしれないからな」
施設へ写真を持っていくと、母は額をじっと見た。
「この人、誰だったかしら」
娘は父の名を教えかけ、やめた。
「笑ってる人」
「そうね。感じのいい人ね」
二人で窓辺に座り、昼食の献立を選んだ。
母は三度同じ説明を聞き、三度とも鯖の味噌煮を選んだ。
娘は三度笑った。
翌朝、施設の窓から細い光が写真へ伸びた。
父の顔まであと少しというところで、母が額の向きを変えた。
「眩しそうだから」
父は話さなかった。
娘も、もうカーテンを動かさなかった。
忘れられることと、愛されなかったことは違う。
父の言葉を覚えているのは、今は娘一人で十分だった。
その代わり、母が今日選んだ味噌煮の味を、二人で新しく覚えた。