朝食の記憶が二つある
世界線が重なった朝、狩宿真砂の台所に、粟生灯真が現れた。
顔も声も恋人と同じだった。
けれど彼は、味噌汁の鍋を見て言った。
「僕、葱は苦手なんだけど」
「七年、毎朝入れてたよ」
「僕の世界では、一年目に別れた」
重なった世界は三十日で元に戻る。そのあいだ、同じ人物は一つの世界に一人しか存在できない。真砂の灯真は向こうへ押し出され、代わりに、別れた世界の灯真がこちらへ来たのだという。
真砂の部屋には二人の暮らしが残っていた。
同じ色の歯ブラシ。沖縄旅行の写真。来月提出するはずだった婚姻届。
灯真は写真の中の自分を、知らない俳優を見るように眺めた。
「幸せそうだ」
「幸せだった」
「僕が?」
「あなたが」
真砂は、彼に記憶を教えれば恋人が戻る気がした。
初めて会った喫茶店。喧嘩して駅まで追いかけた夜。灯真が指輪を隠した靴箱。
けれど彼は丁寧に聞き、丁寧に謝るだけだった。
二十一日目、灯真は向こうの世界の話をした。
別れたあと写真家になったこと。山間の町で暮らしていること。来月、長く付き合った人と結婚する予定だったこと。
「その人のところへ帰りたい?」
「うん」
即答だった。
真砂は泣き、少し笑った。
「顔が同じだから、残ってって言えば残るかと思った」
「言われたら、迷う」
「迷うだけ?」
「君を好きだった人生があったと知ったから。でも、それを今の僕の愛にするのは違う」
三十日目の朝、二人は最後の味噌汁を作った。
葱は入れなかった。
世界がほどけ始めると、灯真の輪郭が窓の光へ溶けた。
「向こうの僕に、何か伝える?」
「ううん。私の灯真なら、戻ったとき自分で分かる」
「もし戻らなかったら」
「そのときは、七年分ちゃんと泣く」
灯真が消える。
次の瞬間、台所には誰もいなかった。
真砂は二つ並べた椀のうち、一つを流しへ下げた。
恋人が戻るかどうかは、まだ分からない。
ただ三十日間で彼女は知った。
同じ顔、同じ声、同じ名前でも、愛した人は記憶の数だけ別人なのだ。
冷めていく味噌汁を一人で飲みながら、真砂は、自分の世界の灯真だけに別れを言う覚悟をした。