木の芽がひらく前
四月の雨は、図面ケースの角だけを執拗に濡らしていた。
鷹栖朔は二十六歳で、設計事務所に入って四年目だった。商店街に置くベンチの案を任され、座面を緩やかな曲線にした。買い物袋を置く人と、杖をつく人が同じ場所で休める形を考えたつもりだった。
夕方、所長から返ってきた赤字は一行だった。
――施工性に難あり。明朝までに標準案へ差し替え。
先輩は親切に、去年使った直線だけの図面を送ってくれた。名前を替えれば終わる。朔はそのファイルを開いたまま、駅裏の居酒屋へ入った。客は彼一人だった。
黒板には「春限定 筍の木の芽焼き」とある。
「それを」
店主は頷き、下茹でした筍を網へ置いた。じゅ、と水気が炭に落ちる。白味噌の表面がぷつぷつ膨らみ、焦げた甘い匂いに、木の芽の青い香りが重なった。
皿の筍は、見本写真より少し曲がっていた。穂先にも不揃いな段がある。
朔が箸で割ると、外側はしゃくりと鳴り、中から淡い湯気が出た。噛むほどに土の甘さが広がり、最後に山椒が舌を細く刺した。
「今年のは、まっすぐじゃないですね」
店主は焼き網を拭きながら言った。
「そういう年みたいです」
それだけだった。
朔はスマートフォンを取り出した。標準案のファイルを閉じ、自分の図面を開く。曲線を消す代わりに、脚の位置を変え、加工寸法を書き足した。杖が滑らない溝の根拠も、二行で追記した。
送信先は所長。件名を何度か直してから、本文に打つ。
〈標準案への差し替えではなく、自案を施工可能な形に修正しました。明朝、十分だけ説明させてください〉
指は送信ボタンの上で止まった。通らないかもしれない。面倒な若手だと思われるかもしれない。それでも、去年の図面に自分の名前を載せるよりは、明日の自分に説明がつく。
送信した。
店主は空いた皿を急かさず、炭の位置だけを直した。朔は送った図面をもう一度見たが、取り消しはしなかった。雨音の向こうで、明朝の説明を最初から一度だけ口の中で組み立てた。
残った筍は少し冷めていたが、穂先だけはまだ温かかった。朔は最後の一切れを奥歯で噛み、木の芽の香りが消えるまで、濡れた図面ケースを膝から下ろさなかった。