杯の底への口づけ
土岐野迅は、黒い杯を選ぶと、ためらいなく逆さにした。
紫の液体が卓上へ広がる。向かいの元刑事と、隣の大学院生が息を呑んだ。迅は空になった杯の脚をつまみ、丸い底へ唇を押し当てた。
『規則違反を確認せず』
天井の声が告げる。
壁に表示されたルールは一文だけだった。
《三つの杯から一つを選び、口をつけよ。毒を飲まなかった者が通過する》
「馬鹿な。飲まなければ選んだことにならない」
元刑事が怒鳴ったが、赤い数字は残り十秒を刻んでいた。彼は白い杯を、大学院生は青い杯を掴む。どちらも、迅が黒を捨てた瞬間に安堵した顔をしていた。
二人は同時に飲んだ。
白い杯を空けた元刑事の喉が、ひゅ、と鳴る。彼は胸を押さえ、椅子ごと倒れた。青を飲んだ大学院生は震えながらも立っている。
『通過者、土岐野迅、桑江美都』
「どうして……」
美都は青ざめたまま、迅の杯を見た。「黒が毒だと分かっていたの?」
「分からなかったよ」
迅は唇についた金属の冷たさを拭った。
「だから飲まなかった。ルールは『口をつけろ』であって、『中身を飲め』じゃない。しかも負ける条件は規則違反じゃなく、毒を飲むことだけだ」
迅は入室時から、三つの杯の底だけが磨かれていることに気づいていた。係員が重ねて運んだなら傷がつく場所なのに、そこだけ鏡のようだった。底へ口をつける解答を、主催者自身が用意していたのだ。見抜ける者を選別するためか、絶望した観客へ種明かしを売るためかは分からない。
元刑事は、黒い液体に触れないよう痙攣していた。美都は自分が助かった喜びより、思い込み一つで死んだ男への恐怖に震えた。
鉄扉が二つ開く。
美都は青い杯を握ったまま動けない。自分も黒を選んでいたら同じことができたはずなのに、毒の色を恐れて近づきもしなかった。その悔しさが、助かった安堵より濃く顔に残っていた。
迅はその前で、監視カメラを見上げた。
「主催者が見たいのは、誰が他人より先に杯を奪うかだ。けど俺は、杯のどこへ口をつけるかを選んだ」
カメラの赤い光が、一度だけ瞬いた。