柚子胡椒は小皿の端に
初めて暖簾をくぐったのは、課長から「明日の説明、おまえがやれ」と言われた帰りだった。
カウンター六席の店には、作業着の男が一人だけいた。いちばん奥で、背中を丸め、湯呑みを両手に包んでいる。店主が「こちら、いつもの人」とだけ紹介しても、男は軽く顎を引いただけだった。
僕は鞄を膝に抱えたまま、壁の札から、せせりの柚子胡椒焼きを頼んだ。明日の資料はできている。数字も確認した。それでも、人前に立つと声が細くなる。断れば逃げたと思われる。受ければ途中で頭が真っ白になる。その二つを、さっきから交互に想像していた。去年の社内発表では、質問を聞き取れず、同じ説明を三度繰り返した。終わったあと誰も責めなかったことが、かえって今まで残っている。今回も同じ沈黙が待っている気がした。
鉄板に肉が置かれ、じゅっと短い音が跳ねた。鶏の脂が焦げる甘い匂いに、青い柚子の香りが鋭く混じる。皿が来ると、肉の表面から細い湯気が上がり、小皿の端に緑の柚子胡椒がほんの少し添えられていた。
箸を持つ手が資料をめくるときみたいに震えた。膝の鞄がずり落ちそうになる。奥の常連が無言で足元を指した。見ると、カウンターの下に荷物掛けがある。僕が鞄を掛けるまで、男は視線を湯呑みに戻して待っていた。
「辛いのは、端からでいいよ」
店主はそれだけ言った。
まず何もつけずに食べた。弾むような歯応えのあと、熱い肉汁が舌に広がった。次は柚子胡椒を箸先に少しだけ取った。辛さは急に来たが、その向こうで鶏の甘みがはっきりした。
僕はスマートフォンを出し、課長への返信を開いた。『明日、やります』と打つ。そこで止めて、『ただ、朝一で五分だけ通しを見てください』と続けた。
送信音は小さかった。奥の男は何も言わず、湯呑みを一度だけ持ち上げた。
不安は消えなかった。明日、声が震えるかもしれない。それでも鞄はもう膝を塞いでいない。最後の一切れに残った柚子胡椒は、最初より少しだけ辛く、唇の内側に明るい熱を残した。