止まった秒針

高級時計店〈クロノ・セレス〉へ、晴海ヶ原奏生は色あせた作業着で入った。

袖には機械油、靴には金属粉がついていた。ショーケースを見ていると、販売主任の乙黒眞尋が入口へ回り込んだ。

「見学だけでしたら外からお願いします。当店は予約のお客様を優先しておりますので」

「この永久カレンダーを見せてもらえますか」

奏生が指したのは、店で最も高価な一本だった。

乙黒は笑みを消した。

「価格は三千万円です。触れてから考える商品ではありません」

若い販売員が手袋と水を用意しかけたが、乙黒は目で止めた。奏生は時計ではなく、その動きを見ていた。

「修理受付も同じですか。服装で預かるか決める?」

「お客様を選ぶのも高級店の仕事です」

奏生は小さくうなずき、店を出た。

翌朝、全社員を集めた臨時会議が開かれた。親会社の新社長が視察に来るという。乙黒は入口に赤絨毯を敷き、昨日の若い販売員を倉庫へ下げた。

黒い車は来なかった。

作業着から紺のスーツへ着替えた奏生が、正面扉から入っただけだった。

時計グループの会長、取締役、工房長が一斉に立ち上がる。

「晴海ヶ原社長、お待ちしておりました」

奏生は、創業家から経営を引き継いだ親会社の代表であり、三千万円の永久カレンダーを設計した時計師本人だった。前日は新工房の旋盤調整を終え、その足で匿名視察に来ていたのだ。

乙黒は青ざめた。

「昨日は防犯上の判断でして。社長と分かっていれば、もちろん――」

「分からない相手への態度を見に来たんです」

監査担当が資料を配った。乙黒は地味な客を何度も追い返し、その一方で富裕客には規定外の値引きを約束していた。苦情は半年で十一件。昨日だけの問題ではなかった。

奏生は倉庫へ下げられた若い販売員を呼んだ。

「水と手袋を用意しましたね。理由は?」

「時計を買うかどうかより、見たいと言った方をお客様だと思ったからです」

奏生は新しい店長任命書へ署名した。

乙黒が慌てて社員証をかざす。扉のランプは赤く点滅した。

ショーケースの永久カレンダーが正午を指し、若い店長の社員証が緑へ変わった瞬間、服装で人の価値を測った乙黒の店内時間だけが、そこで完全に止まった。