正しい夫の見分け方

 毎夕六時十分、夫を名乗る男が帰ってくる。

 雁木直哉と同じ顔、同じ声。右の眉には、大学時代に転んで作った傷まである。合鍵で玄関を開け、私を「芙由」と呼ぶ。

 けれど、夫ではない。

「初めてのデートは?」

「水族館。君がクラゲの前から動かなかった」

 違う。プラネタリウムだ。

「紅茶には?」

「何も入れない」

 違う。角砂糖を二つ。

「昔飼っていた猫の名前は?」

「こはく」

 違う。みぞれ。

 私は間違いを大学ノートへ記録した。男は夜ごと台所を直し、薬を飲ませようとし、同じ寝室で眠ろうとする。警察へ相談しても、家族写真と免許証を見比べ、「ご主人ですよ」と言うだけだった。

 敵は周到だ。写真も役所も、すでに書き換えられている。

 ある日、男は私のノートを見つけた。

 翌晩から、水族館をプラネタリウムと言い、紅茶へ角砂糖を二つ入れ、猫をみぞれと呼んだ。

「覚え直したつもり?」

「芙由、お願いだ。今日は先生と話してほしい」

 灰色の鞄を持った女性が入ってきた。胸の札には〈訪問看護師 椿原〉とある。

「八か月前の脳炎以降、記憶の抜けた部分を、別の出来事で補ってしまうことがあります」

 椿原は机に小型の映像機を置いた。

 画面の中で、若い私は水槽の前に立っていた。

『クラゲ、ずっと見ていられるね』

 次の映像では、紅茶を一口飲んで顔をしかめる。

『砂糖なんて入れたら台無し』

 足元には、こはくと呼ばれた茶色い猫。

「偽物よ」

 私は画面を伏せた。

「私の記憶のほうが本物」

 男は泣きそうな顔をした。その表情も直哉にそっくりだった。

「今日は、私を夫だと思えない日なんです」

 彼が椿原へ言う。

「分かりました。無理に訂正しません。安全だけ確認しましょう」

 二人は私を刺激しないよう、静かに距離を取った。

 その夜、私はノートの新しい頁を開いた。

〈夫役は、記憶を映像にする技術まで手に入れた〉

〈看護師も仲間〉

〈明日は、もっと難しい質問をすること〉

 正しい夫なら、必ず答えられる。

 たとえ、その正解を覚えているのが、もう私一人しかいなくても。