歯ブラシに名前を書く
引っ越し業者が来るまで、あと十五分だった。
羽鳥杏珠は、相馬直登の洗面所で段ボールを閉じていた。直登は明日、同じ沿線の少し広い部屋へ移る。付き合って九か月になるのに、杏珠は新居の住所を今朝まで聞かなかった。
鏡裏の棚から、直登が青い歯ブラシを取り出した。
「これ、どうする?」
「捨てていいよ」
杏珠が泊まった夜だけ使う歯ブラシだった。けれど彼女は毎回、化粧水も充電器も持ち帰った。部屋着を貸されても洗って返し、冷蔵庫に好きな飲み物を置くことさえしなかった。
「マグカップも、前にそう言ったよね」
「荷物になるでしょ」
「新しい部屋、棚が二段増える」
「だからって、私の場所じゃないし」
玄関のインターホンが鳴った。業者から、十分ほど早く着きそうだという連絡だった。狭い洗面所に、逃げる時間だけが減っていく。
直登は歯ブラシを段ボールにも、ごみ袋にも入れなかった。
「杏珠は、いつでも消えられるようにしてる?」
図星だった。
前の恋人と別れたとき、杏珠は置いていた服や本を返してほしいと頼んだ。相手は「会って話すなら返す」と言い、荷物を人質にした。取り戻すまでの一か月、部屋へ行くたび、別れを撤回するよう迫られた。それ以来、誰の家にも痕跡を残さない。好きになっても、逃げ道だけは塞がない。直登の部屋で眠る夜は安心できたのに、朝にはシーツの皺まで伸ばして帰った。彼が傷ついた顔をするたび、杏珠は近づくより先に謝った。
「捨てていいって」
「分かった。じゃあ捨てる」
直登がごみ袋を開いた。杏珠の胸が、歯ブラシ一本には大きすぎる音を立てた。
「待って」
直登は手を止めた。答えを急かさず、油性ペンだけを差し出した。
杏珠は青い柄に、小さく〈杏〉と書いた。自分の名前が、他人の生活用品のあいだに残る。それだけで手が震えた。
「捨てないで」
直登は何も言わず、歯ブラシを〈新居・洗面所〉と書かれた箱へ入れた。杏珠はその箱の封だけ、自分の手で閉じた。新居の箱に自分の文字が混じると、引っ越しがようやく二人の出来事になった。