歯ブラシは三本
洗面台に見覚えのない赤い歯ブラシが立っていた。
鶴ヶ谷紫乃は、それを二本指でつまみ、帰宅した夫の朔弥に突きつけた。
「説明して」
「赤が好きになった」
「先月まで青しか認めないって言ってた人が?」
「人は変わる」
「毛先に長い髪が絡んでる」
「歯磨きにも個性がある」
「あなた、髪で磨くの?」
朔弥はコートを脱がず、玄関へ半歩戻った。紫乃は回り込む。
「最近、火曜と木曜だけ帰りが遅い。スマホには『今夜も会える?』。冷蔵庫には私が買わない苺ミルク。これで赤い歯ブラシ」
「全部つながってる」
「認めるのね」
「いや、つなげたら危険なんだ」
「どんな関係?」
「まだ若い。感情の起伏が激しい。夜になると寂しがる」
「最低」
「でも放っておけない。行き場がなかった」
「うちに連れ込んだ?」
「連れ込んだというか、匿った」
「匿った!」
寝室のほうで、がたん、と音がした。
「今いるの?」
「いる」
「名前は?」
「モモ」
「かわいい名前ね!」
「本人もかわいい」
「開き直った!」
紫乃が寝室へ踏み込むと、カーテンが揺れた。ベッドの下から、小さな鼻先が出る。続いて、赤茶色の毛並みの子ギツネが、おそるおそる顔を出した。
「きゅう」
紫乃は固まった。
朔弥は獣医師だった。道路脇で負傷していた子ギツネを保護し、野生動物救護施設の受け入れを待っていたという。火曜と木曜は治療、メッセージの相手は施設職員。苺ミルクは薬を飲ませた後、自分が飲むため。
「じゃあ歯ブラシは?」
「モモの毛を整える専用。君、動物を家に入れると怒るだろ」
「だから浮気みたいに隠したの?」
「浮気より怒られないと思った」
紫乃は赤い歯ブラシを彼の胸に戻した。
「比較対象が間違ってる」
「それと、長い髪は?」
「モモの尻尾。換毛期なんだ」
「香水みたいな匂いは?」
「消毒薬に君の柔軟剤を混ぜた」
「工夫の方向が、全部あやしいのよ」
朔弥が申し訳なさそうに頷いたとき、ベッドの下から、もう一匹、黒い鼻先が出た。
「……朔弥」
「そっちはコモモ」
「二股ね」