残業は二人分
「先に帰って。残業は一人分で十分だから」
宮地颯介は、遅くなるたび香坂史帆にそう言った。気遣いなのか、単に一人で集中したいのか。史帆には最後まで分からなかった。
福岡支社への異動を三日後に控えた夜も、宮地は同じ台詞を口にした。午後十時四十七分。企画部の照明は二人の島だけ残り、窓には黒い街と、送別会でもらった花束が映っていた。
「今日は宮地さんの資料です。置いて帰れません」
「もう僕の案件じゃないよ。月曜からは香坂さんの案件」
「だからです。きれいに引き継ぎたいので」
本当は、仕事を口実に最後まで隣にいたかった。異動を聞いた日から、胸の中で何度も「行かないで」と言った。けれど彼が望んだ異動なら、その言葉は足枷になる。
最終ページを保存すると、宮地が彼女のマウスに重ねるように手を置いた。触れたのは一瞬だったのに、史帆の指先だけが取り残されたように熱い。
「終わり。駅まで送る」
「大丈夫です。タクシーで」
「それだと僕が困る」
彼は机の引き出しから、二枚折りの紙を出した。飛行機の予約確認書だった。来月の土曜日、東京発福岡行き。搭乗者の欄は空白で、隣に油性ペンが置かれている。
「異動先の店、もう七軒調べた。屋台は一人だと入りにくい」
「同僚を呼ぶには遠すぎませんか」
「だから、同僚じゃない呼び方を決めたい」
告白の言葉はなかった。宮地は予約確認書を彼女の前へ押し、代わりに史帆のコートを取った。断る余地を残すような顔で、それでも逃げるつもりはない目をしていた。
史帆は搭乗者欄に自分の名前を書いた。名字まで書いたところで、宮地が小さく笑う。
「史帆、下の名前だけで分かる」
会社のエントランスを出ると、工事中の歩道が雨で滑っていた。宮地が差し出した手を、史帆はつかむ。危ない場所を過ぎても、どちらも離さなかった。
駅へ向かう角で、彼がいつものように口を開く。
「先に帰って――は、もうやめる」
史帆は握った手を少し強くした。
「はい。一緒に帰りましょう」
残業は一人分しか評価されない。けれど、これから先の時間なら、二人分あっていい。