残業口の缶コーヒー
残業口の自動販売機には、二十一時を過ぎた社員が後悔を一つ入れる決まりだった。入れなければ、隣の退館ゲートが社員証を読まない。後悔はレシートの裏に過去形で書き、主語を自分にしなければならない。人の失敗を書いた紙は、投入口から細長く裁断されて戻ってくる。
砥上は毎晩、害のない一文を用意していた。
〈昼の蕎麦に七味を入れすぎた〉
機械はそれを受け取り、ぬるい缶コーヒーを一本出す。飲む必要はない。空き缶を翌朝、総務の青い箱へ戻せば勤怠が閉じる。それだけの手順だった。
その夜、開発室には砥上一人しか残っていなかった。昼に退職した新人の机だけが、初期化の途中で白く光っている。新人は三日前、社内チャットに〈少し話せますか〉と送っていた。砥上は既読をつけ、会議から戻ったら返そうと思った。会議は延び、翌日は障害対応、その次の日には人事が彼のアカウントを止めた。
いつもの蕎麦の後悔を入れると、紙が裁断されて返った。液晶に〈本日の最大後悔と一致しません〉と出た。最大後悔をごまかすと、ゲートは翌朝まで開かない。
砥上は新しいレシートを探した。机のごみ箱から、新人が最後に買ったミルクティーのレシートが出てきた。裏に書く。
〈僕は十九時十二分、彼の「少し話せますか」を読んで、返事をしないまま席を立った〉
機械は受け取った。缶コーヒーが落ちる音のあと、ゲートの赤灯が緑に変わった。
缶は冷えていた。側面には賞味期限の代わりに「19:12」と印字されている。砥上がプルタブを起こすと、中身は入っていなかった。缶の底で、新人が資料を留めるときだけ使っていた青いホチキス針が一本、乾いた音を立てた。
翌朝、総務の係員は青い箱の缶を一本ずつ持ち主の机へ返した。砥上の缶だけは回収期限が空欄で、振るたび十九時十二分のチャット通知音がした。彼は空になった新人の引き出しへ缶を置いた。昼休みに戻ると、青い針は缶を抜け、閉じた引き出しの隙間を内側から一か所だけ縫っていた。