段ボールは午前一時に鳴く
千歳川綾が広告会社を出たのは、日付が変わってからだった。
雨は細く、コンビニの袋だけがやけに白い。アパートの階段下で、濡れた段ボールが「み」と鳴いた。
蓋を開けると、灰色の子猫がいた。目だけが金色で、綾を見上げてもう一度「み」と言った。
「うちは、寝に帰るだけなんだけど」
子猫は返事の代わりに、彼女の指へ額を押しつけた。
動物病院の夜間窓口では、痩せているほかは問題ないと言われた。里親が見つかるまで、という条件で連れ帰り、濡れた体をタオルで包む。子猫からは雨と埃、それから少しだけ、乾いた藁のような匂いがした。
名前は、段ボールに印刷されていた文字から「しめじ」にした。
翌朝、綾は頬を肉球で踏まれて目を覚ました。目覚ましより二十分早い。
「まだ寝られる」
布団をかぶると、しめじは枕元の充電ケーブルを噛み始めた。綾は飛び起き、餌を出し、水を替え、散らばった猫砂を掃いた。会社へ着く頃には、すでに一仕事終えた気分だった。
しめじは容赦がなかった。午前一時に帰れば玄関で無言のまま座り、午前二時なら背を向ける。休日に昼まで眠ろうとすれば、腹の上で香箱を作る。資料を開けばキーボードを横切り、風呂に入れば曇り硝子の向こうで鳴いた。
「君、私を休ませたいのか働かせたいのか、どっち」
しめじは欠伸をし、答えなかった。
ある晩、綾は終電前の電車に乗った。翌朝でもよい修正を、いつもの癖で今日中に終わらせようとしていたが、画面に浮かんだしめじの写真を見て、パソコンを閉じたのだ。
帰宅すると、しめじは玄関まで走り、勢い余って靴箱へぶつかった。何事もなかった顔で足首を一周し、台所へ先導する。
「ただいま」
言う相手がいるだけで、狭い部屋の空気が少し柔らかくなった。
綾は自分用に牛乳を温め、しめじにはぬるま湯を出した。二つの器から、白い湯気が並んで上がる。窓の外ではまだ雨が降っていた。
里親募集の写真は、結局一枚も撮らなかった。しめじは綾の膝で丸くなり、喉の奥を小さく鳴らした。雨と埃の匂いはもうなく、代わりに毛布と日向の匂いがした。