母の声は別料金
小比賀理人は毎朝、目覚ましを止めるより先に《メモリア》の家族プランを更新する。月額四千八百円。共有された記憶は、最初に記録した人の契約が続く限り、関係者全員が思い出せる。それが唯一の規則だった。
母の佐和が死んで半年、理人は彼女のアカウントも払い続けている。台所で包丁を持つたび、背後から「猫の手」と笑う声が戻ってくる。二十歳の誕生日、就職で家を出た朝、玄関に置かれた青い傘。受験に落ちて布団から出なかった三日目、黙って置かれた焼きおにぎりの匂い。どれも母の視点で保存された記憶だ。
母は記録魔だった。理人が覚えていない幼稚園の運動会も、反抗期に口をきかなかった夕食も、「いつかあんたが自分を嫌いになったとき用」と笑って残していた。だから葬儀のあとも、理人は母の端末を充電し、月初には必ず決済した。
今月は給料日が祝日に重なった。引き落としは一度だけ失敗したが、昼休みに払えば間に合うはずだった。
通勤電車で通知が震えた。
〈契約者の生体確認が百八十日間行われていません〉
〈故人アカウントの代理更新には、本人の生前同意が必要です〉
〈同意記録なし。午前九時をもって共有を終了します〉
理人は時刻を見た。八時五十九分。
慌てて更新ボタンを押す。指紋認証。決済。処理中の輪が一周する間に、車窓へ朝日が差した。サポートへ電話すると、本人確認の秘密の質問が表示された。
〈あなたが初めて契約者を呼んだ言葉は?〉
そんなものを覚えているのは、母の記憶だけだった。
九時になった。
何も起きなかったように見えた。だが、理人は青い傘をなぜ捨てられずにいるのか分からなくなった。包丁を握る指の形だけが妙に窮屈で、誰に教わったのか思い出せない。
最後の通知が届いた。
〈共有終了に伴い、契約者が保有していた「子の成長記録」二百四十六件も利用できません〉
理人は息を止めた。母を失うだけではなかった。初めて歩いた日も、熱を出して抱かれた夜も、母の側から保存された自分の幼年期だった。
イヤホンから、解約案内の合成音声が流れた。
『長らくのご利用、ありがとうございました』
その声だけが、母によく似ていた。