母の夏は三千円

雪村初音が母の記憶を買ったのは、偶然だった。

記憶市場〈リコール〉では、仲介AIが売り手の身元を伏せる。初音が勧められたのは「地方の夏休み・十二歳・幸福度八十一」という三千円の廉価品だった。都会育ちの自分にはなかった、川で冷やした西瓜や、縁側を走る蟻や、夕立の匂いを一度味わってみたかった。

接続した瞬間、初音は知った。

水面に映る顔が、若いころの母だった。耳の後ろにある小さな痣まで同じだった。

記憶の中の母は、祖母に隠れて弟へ西瓜の赤いところを譲り、自分は皮際をかじっていた。夜になると、進学したいと書いた紙を畳み、蚊取り線香の缶へ隠した。翌朝、その紙は祖父に見つかって燃やされた。それでも母は、川へ飛び込みながら笑っていた。

初音の知る母は、思い出話をしない人だった。家族写真にも滅多に入らず、「過ぎたものを残して何になる」と言った。初音がシャッターを切るたび、二人の間には見えない戸が閉まった。娘が大学を辞めて写真家になると言ったときも、「食べていける仕事にしなさい」としか言わなかった。初音は、夢を捨てた人が他人の夢まで嫌うのだと決めつけていた。母は過去を持たない人のように見えた。

販売履歴を調べると、母は十年前にその夏を売っていた。初音の私立高校の入学金が足りなかった年だった。独占譲渡された記憶は、売り手から消える。母は進学を諦めた悔しさも、弟を守った誇らしさも、あの笑い方も失っていた。

初音は返却手続きを申し込んだ。だが母は端末を押し戻した。

「買った人の人生まで混ざった記憶は、もう昔の私だけのものじゃないよ」

「じゃあ、半分ずつ持とう」

初音はそう言って、再生端末を二人用に設定した。

川へ飛び込む十二歳の母の目で、二人は同じ夕焼けを見た。接続が切れたあと、母はしばらく黙り、それから初音のカメラを指した。

「次の休み、あの川へ行く?」

昔を取り戻すのではない。失った夏の続きを、今から撮りに行くのだと初音には分かった。