毒杯は冷めない
王宮の大時計が九時を打ったとき、楽団の音が途切れた。
「ティルザ・ハルヴェイン。君との婚約を破棄する」
王太子オルヴェンは、広間の中央で青い杯を掲げた。その隣では、聖女候補のミネッサが胸を押さえ、青ざめた顔で支えられている。
「彼女の葡萄酒に眠り毒を入れたのは君だ。私の妃になるため、邪魔者を消そうとした」
百の視線がティルザへ刺さる。
だが彼女は泣かなかった。扇を閉じ、たった一度だけミネッサの唇を見た。倒れた者にしては呼吸が整いすぎている。
「告発は、それだけですか」
「言い逃れか」
「いいえ。診断を待っています」
人垣を割って進み出たのは、王立医療院長ドレクサスだった。銀髪の老医師は誰にも頭を下げず、小さな硝子瓶を卓上へ置く。
「今宵、入場者全員から採った保安用の血液だ。この封緘瓶は採血時刻と、血中に存在した薬物を氷晶文字で保存する」
瓶の底に、青い文字が浮かんだ。
午後八時十分。薬物反応、なし。
毒入りの酒が配られたとオルヴェンが断言したのは、午後八時だった。
「症状が出るまで一刻かかる毒だそうですな」とドレクサスは淡々と言った。「ならば八時十分の血に残らぬはずがない。聖女候補は毒を飲んでおられぬ」
広間が静まり返った。
ミネッサの顔色から、今度こそ本当に血の気が引く。オルヴェンは杯を取り落とした。
「待て。これは何かの間違いだ。ティルザ、今の婚約破棄は撤回する」
「撤回はできません」
ティルザは胸元から婚約契約の写しを出しかけ、やめた。証拠を増やす必要はなかった。
「殿下ご自身が、王家とハルヴェイン家の前で破棄を宣言なさいました。私はもう、殿下の婚約者ではありません」
「だが君はどこへ行く。家名だけで生きられると思うのか」
その問いに答えたのはドレクサスではない。彼はただ、医療院の紋章を刻んだ手袋を外し、手を差し出した。
ティルザが幼いころから薬草学の論文を匿名で送り続けていたことを、知る唯一の人だった。
「北方診療団には、毒を見分ける目と、騒ぎの中で泣かぬ胆力が要る」
助けられるのではない。選ぶのは自分だ。
ティルザはオルヴェンに背を向け、ドレクサスの手を取った。