泡の下の退職願

岡崎真帆がカフェ〈薄明〉に持ち込んだのは、会社のノートパソコンと、まだ送信していない退職願だった。

「キャラメルラテを。一番甘くしてください」

カウンターの八雲朔は、右手だけにはめた白い手袋でカップを取った。灰色のシャツも声も温度が低い。

「嘘は泡より軽いですよ」

「注文しただけですけど」

「いつもはブラックです」

真帆は画面を伏せた。三か月前から通っているが、朔が常連らしい言葉を口にしたのは初めてだった。

恋人の海外赴任についていく。退職理由にはそう書いた。二人で決めたことだし、向こうでも仕事は探せる。何度説明しても、文章の最後だけカーソルが点滅していた。

「辞めるべきか、教えてもらえませんか」

朔は返事をせず、真帆の財布から半分のぞいた紙を白い指で示した。昨日更新したばかりの、会社までの三か月定期だった。

「行きたい人は、定期を延ばしません」

「忘れてただけです」

「嘘は泡より軽い」

ミルクの表面に、朔は一本の線を引いた。片側には濃いエスプレッソ、もう片側には白い泡が寄る。

真帆はとうとう言った。ついてきてほしい、と頼まれた瞬間、嬉しいふりをしたこと。今の仕事を手放したくないこと。恋人を選ばない自分が薄情に思えて、その気持ちごと退職願に隠したこと。

「相談じゃありませんね」

「じゃあ、何ですか」

「共犯者探しです。自分で決めたくない人が、正解を言ってくれる誰かを探している」

胸に刺さる言い方だった。けれど朔は、送信ボタンから遠い場所へパソコンを押し戻し、代わりに紙ナプキンを一枚置いた。

「辞めるか残るかは明日でいい。今夜は、まだ話していない相手に話す」

真帆はナプキンに、恋人へ送る最初の一文を書いた。『一緒に行くと言ったけど、ほんとうは怖い』。それだけ送ると、甘すぎるラテが少しだけ飲めた。

立ち上がった拍子にカップを倒し、茶色い雫がカウンターへ広がった。朔は白い手袋で黙って受け止める。

「汚してすみません」

「手袋は、そのためです」

会計を終えた真帆が振り返ると、朔は手袋を外し、裏返していた。外側は白いままなのに、内側には古い珈琲の染みが幾重にも残っている。

「秘密を触る手は汚れないんですね」

真帆が言うと、朔は初めてわずかに笑った。

「逆です。見えない側ほど、よく染みる」

そして新しい白手袋をはめ、次の客へ顔を上げた。

「ご注文は。嘘は、泡より軽いですよ」