波止場の空っぽな一日
『無限庫』を得た日、柊木透は王都最大の運送商会を辞めた。
最後の制服は、肩の紺布が白く擦れ、袖口には荷札の針で開いた穴が三つ残っていた。夜明け前に届いた緊急連絡は十一件。どれも「人手不足」「今すぐ戻れ」「代わりがいない」で、透の名前を呼びながら、透の都合だけが書かれていなかった。
彼が買ったのは、海辺の傾いた小屋と小さな桟橋だった。無限庫の入口を納屋に固定し、近隣の漁師や農家へ鍵札を一枚ずつ渡す。魚箱も麦袋も、札をかざせば時間の止まった庫内へ勝手に収まり、町の市場で売れた分だけ自動で取り出される。
透がすることはない。保管料と売買手数料が、朝夕に小銭として口座へ落ちるだけだ。
最初の一週間だけは落ち着かなかった。潮が満ちるたび、何か見落としていないかと納屋へ走り、深夜には存在しない点呼表を探して目を覚ました。けれど庫内の魚は凍らず腐らず、麦袋は一粒もこぼれない。漁師の婆さんは「働き者の箱だねえ」と笑った。透は、自分より箱のほうが働き者であることに、初めて安堵した。
《本日の保管料:銀貨七枚。生活費の必要額に到達しました》
卓上の端末が、控えめな音を鳴らした。豪邸を建てられる額ではない。だが、パンと魚と薪を買い、来月も誰にも頭を下げずに済む額だった。
その直後、商会長から通話が入った。
「北便が崩壊寸前だ。三日だけでいい。お前なら荷を全部さばける」
透は窓辺に掛けた古い制服を見た。あれを着ていた頃、三日だけという言葉は、必ず三十日になった。
「契約は終わっています」
「今なら主任席を空ける。給金も上げる」
以前なら、その言葉を評価だと思っただろう。今は、壊れかけた椅子へ座らせるための縄にしか見えなかった。
「恩を忘れたのか」
「忘れていません。だから戻りません」
通話を切ると、未読の緊急連絡をまとめて消した。潮風が窓を押し開け、海の匂いが部屋へ入ってくる。無限庫から昨日買った竹竿を取り出し、透は桟橋へ向かった。
魚が釣れなくても、今日は誰にも叱られない。