泥を塗った白旗
夜明けまで二刻というころ、梶尾平吾は白旗を泥田へ引きずり込んだ。
三つ葦の紋が、たちまち茶黒く潰れた。旗奉行が平吾の頬を張った。
「降伏旗でもないものを汚す奴があるか」
「敵の鉄砲足軽は、白い物だけを狙っております」
谷向こうの藤代勢は、昨日から軍旗の高さを測っていた。白い三つ葦が動く所に磯貝刑部がいる。そう読ませるため、味方も三日間、刑部の馬廻りを旗の下から離さなかった。今朝の斉射で旗ごと首を取るつもりだろう。
刑部は床几に座り、泥の垂れる旗を見た。
「旗を伏せれば兵が崩れる」
「伏せません。色を殺すだけです」
平吾は腰から白い手拭いを抜いた。夜のうちに、空の物見櫓へ結ぶ。それを三つ葦と見違えた敵が撃てば、最初の一斉射は木材を殺す。
「二射目までに洗えるのか」
平吾は用水路を顎で示した。上流の堰を切れば、尾根の畦まで水が走る。だが堰役は敵の矢が届く場所にいた。
「洗えなければ、合図が出せぬぞ」
「その時は泥旗のまま振ります。近くの者には紋が見えます」
「遠くの別働隊には見えん」
「見えぬ旗を信じて動けぬなら、最初から別働隊ではありません」
刑部は笑わなかった。平吾も笑わない。足軽の理屈が通る時は、たいてい誰かの首が足りない時だ。
泥の紋を見て、不吉だと顔を伏せる兵もいた。平吾は旗竿で一人ずつの兜を軽く叩いた。
「白く戻るまで死ぬな。戻ったら、好きに死ね」
兵たちは笑わずに顔を上げた。笑わない者同士には、それで十分だった。
平吾は物見櫓へ手拭いを結び、泥旗を畦へ立てた。薄明の向こうで火縄が赤く並んだ。やがて百挺が一つの獣のように息を吐き、物見櫓の白布が木屑とともに消えた。
次弾を込める棒の音が谷を渡る。
上流で堰役が立ち上がった。胸に矢を受けながら、杭へ斧を振り下ろした。濁流が畦を走り、平吾の脛を打つ。
平吾は旗を水へ沈め、両手で泥を絞った。白地の下から三つ葦が戻る。敵の銃口がこちらへ揃い始めた。
刑部が軍配を横へ切った。
「平吾、上げろ」
白旗が朝日に濡れ、右の尾根で一気に立ち上がった。