海苔の切れ目
宇田川凪紗は、会社を辞めてからも毎朝八時十分に家を出ていた。母には出勤していることになっている。駅前の図書館で求人票を眺め、夕方になると遠回りして帰る。その鞄の底には、母が詰めた海苔弁当があった。
母は、娘が有名な会社へ入ったことを近所にまで自慢していた。上司の叱責で眠れなくなり、ある朝とうとう席へ行けなかったことなど、言えるはずがない。退職は逃げではないと自分に言い聞かせても、母の顔を思うと、その言葉だけが薄くなった。
昼、凪紗は閲覧席の端で弁当の蓋を開けた。醤油を吸った海苔の香りがし、まだ少し温かいごはんに黒い一枚がぴたりと張りついている。子どものころから、海苔が箸で切れず、ごはんを一列まとめて持ち上げてしまうのが嫌だった。母は毎回笑って、次から切っておくと言い、結局いつも一枚のままだった。
今日も端をつまむと、海苔の下から白いごはんが帯のようについてきた。凪紗は慌てて戻さなかった。箸先を縦に入れ、海苔を小さく押し切る。一度では切れず、二度、三度と力をかけた。黒い表面に不格好な裂け目ができた。
ひと区画ずつ食べると、ごはんは崩れなかった。会社を辞めたことも、次の仕事がないことも、母をがっかりさせることも、本当は一枚につながった問題ではないのかもしれない。切ってしまえば、今日話す部分と、まだ話せない部分に分けられる。
最後に、海苔だけが小さく一片残った。凪紗はそれを弁当箱の隅へ置き、蓋の裏に挟まれていた紙ナプキンを広げた。そこへ「会社はもう辞めた」と一行だけ書く。理由も予定も書かなかった。
夕方、空になった弁当箱を台所へ置いた。黒い一片の下から、折った紙が少し見えるようにして。
図書館の時計は、まだ午後三時だった。いつもなら会社にいるふりを続ける時間だ。凪紗は鞄を閉じ、母に見つかることを恐れず、まっすぐ家へ向かった。話せない理由まで今夜に詰め込まなくても、最初の切れ目だけは自分で入れられる。
凪紗はいつもの帰宅時間まで外を歩かず、まだ明るい玄関で靴を脱いだ。