海苔を半分だけ

稲見かすみが企画部の照明を消せずにいたのは、午前零時二十七分だった。

机には二枚の書類がある。一枚は、来月から課長代理になる辞令。もう一枚は、産休に入る先輩の復帰予定表で、戻る席の欄だけが空白だった。

夕方、部長は祝いのつもりで言った。

「君なら、そのまま任せられる。復帰しても補助に回ってもらえばいい」

かすみは笑って辞令を受け取った。入社以来ほしかった肩書だった。けれど、育ててくれた先輩には、代理でなく後任になるらしいとは言えなかった。

先輩は、かすみが初めて大きな失敗をした夜、顧客への謝罪文を代わりに書かなかった。隣で一行ずつ直し、最後にかすみ自身の名で送らせた。成果を横取りせず、責任だけを肩代わりもしない人だった。だから今度は、自分が先輩の不在を都合よく使う側になることが、昇進そのものより怖かった。

先輩が退社前に置いていった塩むすびが、透明な袋の中で冷えていた。海苔は別の小袋に入っている。食べる直前に巻けば、ぱりっとするから。引き継ぎの最中、先輩はそう言っただけだった。

かすみは海苔の封を切った。乾いた音が静かなフロアに響いた。いつもなら一枚をきれいに巻く。今夜は真ん中から二つに裂き、片方だけを米へ当てた。

ひと口かじると、海苔が細かく砕け、冷えた米がゆっくりほどけた。肩書がほしい気持ちは消えなかった。先輩の席を奪いたくない気持ちも、同じだけ残った。どちらかを飲み込めば立派な社会人になれると思っていたが、塩むすびは片側しか巻かれていなくても崩れなかった。

かすみは辞令の受領欄へ署名した。その下に、課長代理は復帰日までの期限付きとすること、復帰後の担当と席を事前に明記すること、と追記した。

残った海苔の半分を、復帰予定表の空白の上へ置く。黒い四角は、そこに誰かの場所があると示す札のように見えた。

かすみは最後のひと口を食べてから、修正案を部長と人事へ送信した。辞令は机に残し、海苔だけを先輩の引き出しへ戻した。