消えなかった更新履歴
取引先への最終デモの日、網代紬の席だけ会議室に用意されていなかった。
「若手は外で待機。質問が来たらチャットで答えろ」
開発部長の城戸崎邦彦はそう言い、紬が半年かけた自動復旧機能を、自分の成果として資料の一枚目に載せた。表紙にあった紬の名は消え、《設計・城戸崎》と太字で書き換えられている。
「この部分、説明は私がしたほうが」
「コードを書くだけの人間に商談は無理だ。コーヒーを人数分頼む」
扉が閉まり、拍手の練習まで聞こえた。
紬が作ったのは、障害を隠す機能ではない。途中まで受け付けた注文を一件ずつ照合し、二重請求も取りこぼしも出さずに元へ戻す仕組みだった。城戸崎が「派手さがない」と削ろうとした部分ほど、取引先は厳しく確認する。
同僚がチャットで《中へ入らなくていいの?》と送ってきた。紬は《呼ばれるまで待機》と返し、膝の上の紙コップが冷えていくのを見た。
紬は廊下の丸椅子で、デモ環境の監視画面を開いた。通信遮断、二重送信、時刻ずれ。先方が用意した試験は公表されていたものより厳しい。それでも復旧機能は、紬が想定した順に処理を戻していった。
会議室から城戸崎の声が響く。
「独自の発想です。私が一人で基本設計から――」
直後、取引先の技術責任者が通信をさらに十秒切った。画面の数字が一度だけ赤くなる。城戸崎は復旧条件を聞かれ、答えられなかった。
「細部は部下が実装したので」
扉が開き、城戸崎が紬を指で招いた。
「今だけ説明しろ。余計なことは言うなよ」
紬が入ると、壁一面にソース管理画面が映っていた。先方の監査担当が、契約前確認として更新履歴を開いたのだ。
復旧機能に関する百八十三件の更新は、すべて《Ajiro Tsumugi》。城戸崎の更新は、発表資料の作成者欄を書き換えた一件だけだった。
「共有アカウントです」と城戸崎が笑う。
監査担当は署名鍵の照合結果を拡大した。個人認証のため、共有はできない。
取引先の責任者は資料を閉じ、紬へ椅子を一つ空けた。
「審査を続ける条件を変更します。技術責任者を網代さんに改めてください」