湯気が消えるまで

 父を家で看取ると決めてから、娘は何かしていないと不安になった。

 薬の時間を表にし、体温と呼吸を記録し、シーツの皺まで直した。父が目を閉じていると、「苦しくない?」「水は?」「先生を呼ぶ?」と何度も尋ねた。

 ある夕方、父がかすれた声で言った。

「味噌汁を作ってくれ」

 もう飲み込む力はほとんどない。医師からも、無理に食べさせないよう言われていた。

「飲めないでしょう」

「知ってる。匂いだけ」

 娘は台所へ立った。

 父が元気だったころ、味噌汁はいつも父の役目だった。具を入れすぎて鍋をあふれさせ、母に「煮物に改名して」と叱られていた。

 冷蔵庫には豆腐と葱しかなかった。娘が慎重に味噌を溶いていると、兄が仕事帰りに来た。

「薄くない?」

「飲ませないからいいの」

「父さんは濃いほうが好きだった」

「血圧が高いからって、母さんに薄くされてたでしょ」

 二人は鍋の前で、二十年ぶりに父の味を言い争った。

 結局、少し濃い味噌汁を椀へよそい、病床のそばに置いた。

 父は目を開けず、鼻からゆっくり息を吸った。

「うまい」

「飲んでないのに」

「食べた味は、口だけに残るんじゃない」

 その夜、父の呼吸は浅くなった。

 娘はまた記録表へ手を伸ばしたが、兄が鉛筆を押さえた。

「今は書かなくていい」

「でも、変化があったら」

「先生には連絡した。もう、そばにいよう」

 二人は何もせず、父の左右に座った。

 娘が乾いた唇を湿らせると、父は目を閉じたまま「今日はもう働くな」と言った。それが、娘へ向けた最後のはっきりした言葉になった。

 母の古い話、父の失敗、兄が隠していた退職のこと。返事はなかった。それでも父の指が一度、娘の手の中で動いた。

 明け方、呼吸が静かに止まった。

 娘は時刻を確かめようとして、時計から目をそらした。

 窓辺の味噌汁には、もう湯気がなかった。

 けれど部屋にはまだ、父が家族へ作り続けた夕食の匂いが残っていた。

 娘は記録表の最後の欄を空白にした。

 看取った時間を数字で閉じず、兄と二人で覚えておくためだった。