湯気が消える前に
久世芹香は、鍋に水を張ってから、姉の音声を再生した。
ファイル名は「朝の味噌汁」。長さは四分十二秒。姉が入院して二週間目、父の誕生日に間に合わないかもしれないと知った日に録ったものだった。けれど、冒頭にあるのは別れの言葉ではない。
『昆布、昨日の夜から入れた? 忘れたなら水のままでいいよ』
芹香は忘れていた。冷蔵庫を開け、昆布の袋に手を伸ばしかけ、やめる。水のままでいい、と姉が言ったからだ。
父は居間で新聞を広げている。紙の擦れる音だけが、ときどき台所へ届いた。葬儀から三日、父はインスタントのスープしか口にしていない。芹香も同じだった。
音声は昨夜、姉のクラウドを整理していて見つけた。ほかのファイルには薬の時間や保険会社の番号が並び、この一件だけが料理名だった。父へ聞かせるか迷ったが、まず自分一人で最後まで再生してみることにした。
音声の向こうで、姉が何かを落とした。小さく笑い、『ねぎは薄く。お父さん、太いと残すから』と言う。笑った直後に短い咳がある。それを聞かないふりで、芹香はねぎを刻んだ。包丁がまな板を打つたび、録音の雑音が遠ざかる。
『豆腐は包丁で切らなくていい。手で崩すと、角がなくて朝っぽい』
朝っぽい、という言い方が姉らしかった。芹香は掌の上で豆腐を割った。白い欠片が鍋に落ち、水面が一度だけ揺れる。
湯がふつふつと鳴り始めたころ、音声は残り二十秒になった。
『味噌は火を弱めてから。お玉の中で溶かす。煮立てたら香りが逃げるよ』
姉は最後まで、戻ってくるつもりの声をしていた。芹香は味噌を溶き、ねぎを散らす。味見をすると少し薄い。姉なら足すだろうかと迷い、父が血圧を気にしていたことを思い出して、そのままにした。戸棚から、姉が朝によく使った木目の椀ではなく、父の紺色の椀を出す。再生バーが端へ近づく。
『それで、火――』
音声はそこで切れた。
芹香は画面を見ず、つまみを右へ回した。青い炎が消え、鍋の表面から細い湯気だけが上がった。父の茶碗の隣へ椀を置くと、味噌の匂いが新聞の向こうまで届いた。