湯気の向きが違う
櫟原葉月は、朝の湯気が窓へ流れるのが好きだった。
鳥越郁央は、部屋に残るのが好きだった。
葉月が珈琲を淹れると窓を少し開け、郁央は寒いと言って閉めた。郁央は使ったカップを水につけ、葉月は輪染みになる前に洗った。歯磨き粉の蓋、玄関の靴の向き、動画の字幕、眠るときの明るさ。どれも喧嘩にするほどではなく、だから二人は毎日、黙って相手のあとを直した。
最初は、それも愛だと思っていた。
葉月が閉じられた窓を開け、郁央が開いた窓を閉じる。互いの癖を知っている証拠のようで、少し可笑しかった。
五年目になると、直したことを気づかれたくなくなった。
葉月は郁央が風呂へ入っている間に靴をそろえ、郁央は彼女が出勤したあと字幕を消した。相手を傷つけないための小さな配慮が、相手のいない時間にだけ自分らしく暮らす技術へ変わっていた。
日曜の朝、郁央が窓を開けた。
珍しい、と葉月が思う。
だが彼は湯気を逃がすためではなく、別れ話をする前に空気を入れ替えたかっただけだった。
「別々に暮らさない?」
「うん」
返事が早すぎて、二人とも傷ついた顔をした。
「嫌いになったわけじゃない」
「私も」
「もっと話せばよかった」
「何を? 歯磨き粉を端から押して、とか?」
「そういうことを」
葉月は笑った。
本当に言いたかったのは、蓋のことではない。自分が直されるたび、暮らし方ごと間違っている気がしたこと。郁央も同じだったのだろう。
荷造りの日、二人は台所用品を分けた。
郁央は黒いケトルを、葉月は白いポットを取った。どちらも一緒に買ったものだった。
最後に珈琲を淹れる。
葉月は窓を開け、郁央は閉めなかった。
湯気は冷たい外気へ細く流れた。
「我慢しなくていいのに」
「今日くらい、葉月の好きな向きで」
その優しさが、もう遅いことを二人とも知っていた。
玄関で別れ、葉月は右へ、郁央は左へ歩いた。
振り返ると、互いも振り返っていたので、少し笑って手を振った。
二人の愛は、大きな出来事で壊れたのではない。
毎日一ミリずつ、自分のほうへ暮らしを戻そうとして、そのたび相手を一ミリ遠ざけた。
それでも最後の湯気だけは、どちらも直さず、同じ窓から外へ送り出した。