湯気の向こうの氷獄

「お湯は朝まで冷めませんよ」

山道の宿〈灰梟亭〉で、主人のセルジュは毎晩、客室の水差しを満たし、暖炉の煤を落とし、欠けた湯呑みを裏へ下げる。剣も杖も壁には飾らない。腰にあるのは鍵束だけだ。

吹雪の夜、伝令見習いのミラナが転がり込んできた。王都へ届ける密書を胸に抱き、指先は紫色だった。セルジュは黙って椅子を火のそばへ寄せ、蜂蜜湯を置いた。宿には負傷した猟師、峠越えを待つ商人、熱を出した幼児も泊まっている。吹雪が三日続いても、ここだけは誰も凍えさせない。それが主人の自慢らしかった。

その直後、暖炉の火が青白く凍った。

煙突から降りたのは、北境を三つ滅ぼした氷獄侯グラシエだった。鎧の隙間から冷気を吐き、眠る客ごと宿を氷棺にしようと腕を広げる。悲鳴を上げかけたミラナの前で、セルジュはただ鍋の蓋を閉じた。

ことん、と小さな音がした。

宿中へ伸びていた霜が、逆向きに暖炉へ戻る。氷獄侯の巨体も、雪崩のような魔力も、湯気に引かれて細い糸となり、蓋の隙間へ吸い込まれた。セルジュが木匙で一度かき混ぜると、青白い光は蜂蜜色に変わった。氷獄侯が最後に放った千本の氷槍も、鍋の中では砂糖の粒ほどに縮み、ぱちぱちと溶けた。主人の袖さえ濡れていない。

ミラナには見えた。湯気の中に一瞬だけ、七重の魔法陣と、古い戦勝碑に刻まれた大魔法使いの紋章が重なったのを。幼いころ王都で見た碑には、ただ一人で永久凍土を春へ戻した〈暖炉の賢者〉の名があった。そこに刻まれた横顔は、目の前の宿主に似すぎていた。

「いまのは……」

「火加減を直しただけです」

セルジュは凍って割れた石を指で撫で、元どおりにつなげた。床の霜を布で拭き、グラシエの名が焼きついた鍋蓋は裏返す。翌朝、誰も吹雪が一度宿の中へ入ったことに気づかなかった。

ミラナだけが、手渡された蜂蜜湯から真夏の野原の匂いを感じた。彼女が密書を抱き直すと、主人はまた空の水差しを確かめている。

そして、青かった指先がすっかり温まったころ、セルジュはいつもの調子で言った。

「お湯は朝まで冷めませんよ」