漆鞘の薄皮
雨が陣幕を叩くたび、椿井弥五郎の背で黒い刀鞘が鳴った。
夜明けには、包囲軍の大筒が嶺代城へ火を吐く。城内へ伝えるべきことは一つだけだった。大筒は東へ向けたまま、西の谷を空ける。味方の夜襲はそこから入る。
密書は鞘の漆の下にあった。薄い雁皮紙へ四行を書き、乾かぬ黒漆で覆ってある。熱を当てれば漆だけが薄皮のように剥がれる。
弥五郎は塗師を装い、敵将の替え鞘を届ける職人として包囲線へ入った。鞘には敵将・紙屋宗兵衛の紋、割れ笹が金で蒔かれている。
関所で番頭が鞘を抜き取った。
「新しい漆だな」
「雨で曇っただけです」
番頭は小柄の先で黒漆を掻いた。紙一枚ぶん下に、城兵七百の命が眠っている。弥五郎は番頭の手ではなく、蒔絵の紋を見た。
「そこからお調べを」
鞘の中央、何も埋めていない場所を指す。
番頭は笑った。「指図するか」
「割れ笹を削るなら、先に御自分の名を申された方がよい。宗兵衛様へ、誰が御紋を傷つけたか申し上げます」
小柄が止まった。敵将は敗戦より面子を恐れる男だった。弥五郎はその性根だけを頼りに、三重の柵を抜けた。
内柵を過ぎると、薪置場の陰から崖下へ滑り、雨水の溝を腹で進んだ。背後で誰かが叫んだが、矢は鞘の金具を一度叩いただけだった。
城の潜り戸で、守兵は弥五郎の顔より鞘を確かめた。合言葉はなかった。合言葉は捕らえられれば吐く。割れ笹の左葉に、針ほどの傷がある。それだけだった。
城門でもう一度、味方の番士が弥五郎の袖を探った。敵に寝返った間者が、偽の密書で門を開かせることもある。弥五郎は右手を差し出した。親指の腹には、今朝自分で押した焼き印がある。城の塗師頭しか知らぬ印だった。だが頭は昨冬、敵の矢で死んでいる。証明できる者が死んでいるからこそ、使える印だった。
城代の御倉井刑部は火鉢へ鞘をかざした。漆が汗をかき、黒い皮がめくれる。下から雁皮紙の端が現れた。
刑部は四行を読み、紙を火へ落とした。
「おまえは戻れるか」
「戻れば塗師ではなくなります。死人なら、どちらの陣でも通れましょう」
弥五郎は濡れた袖で鞘を拭いた。紋だけは傷ついていない。
刑部が立ち上がった。
「西の潜り戸を開けろ」
鉄の閂が、闇の中で持ち上がった。