濡れた母衣

雨が止んだとき、戸浪景朔は赤い母衣を井戸へ沈めた。

「濡らせば風を孕みません」

従者の伊勢松が言った。十六だった。景朔は水を吸った母衣を引き上げ、肩に結び直した。赤布は血を含んだ皮のように背へ張りついた。

「風を孕ませるための物ではない。今夜は目を孕ませる」

峠の向こうでは、主力三百が城道へ退いている。追う鷺森勢は千二百。敵の先陣を率いる相良玄蕃は、赤い母衣の武者を見れば景朔だと知っていた。三度の合戦で、景朔がいつも殿を務めたからだ。

地図はもう燃やした。残った策は一つだけだった。

景朔は伊勢松へ、自分の脇差を渡した。

「これを城門へ届けろ。柄頭が着けば、殿はまだ生きていると皆が思う」

「殿が着かなければ、同じです」

「兵は、誰が生きているかではなく、何を信じて走るかで足が動く」

峠道の分かれ目で、景朔は右へ向かった。城は左だった。右は崩れた炭焼き道で、三里先に断崖がある。濡れた母衣なら枝に引かれず、月の下ではなお赤く見える。

背後で蹄が鳴った。玄蕃は迷わなかったらしい。

伊勢松は馬首を左へ向けたまま動かなかった。

「行け」

「供を」

「二騎では疑われる」

景朔は笑わなかった。笑えば別れになる。少年の馬の尻を槍の石突で叩いた。馬が跳ね、左の闇へ消えた。

景朔は右の坂をゆっくり上った。急げば罠に見える。追いつけそうな速さこそ、追手の理性を殺す。母衣から落ちる水が、石に赤黒い点を残した。

やがて玄蕃の声がした。

「戸浪、城を捨てたか」

「城は人を守らん。逃げ切った人が、次の城を建てる」

矢が肩を抜いた。痛みは熱く、そのあと急に冷えた。景朔は振り返らず、断崖まであと百歩を数えた。ここで馬を倒せば敵は罠を疑う。倒れる場所まで自分で選ぶのが、殿軍に残された最後の贅沢だった。谷の左手、はるか下で、小さな松明が三度揺れた。主力が門前へ着いた合図だった。

景朔は濡れた母衣の緒を切った。赤布が泥へ落ち、追手の足が一瞬止まる。彼はその一瞬だけを待っていた。

遠い城壁の上で、退却完了を告げる白旗が上がった。