火を落とす前の麻婆豆腐
閉店まであと五分だった。入口の札はもう半分だけ裏返され、カウンターの上では店主が空いた徳利を木箱へ戻していた。若い客は戸口で一度頭を下げた。
「食べるだけでも、いいですか」
店主は時計を見ず、「一品なら」と答えた。
鉄鍋が火にかかる。油がぱちりと弾け、刻んだ葱と豆板醤の匂いが、静まりかけた店をもう一度起こした。赤い餡の中で豆腐が揺れ、立ち上る湯気が客の眼鏡を白く曇らせる。仕上げの花椒を挽く音は、乾いた砂を踏むように小さかった。
客の鞄には会社のノートパソコンが入っていた。明日の朝、止まったままのシステムについて説明しなければならない。原因は分かっている。自分が移行手順を理解できないまま、「大丈夫です」と答えたことだ。チームの全員が帰った後で何度も画面を見直したが、知らないものは、残業しても知らないままだった。モニターの青白い光だけが、返事を待つように机を照らしていた。
退職届のひな型をスマートフォンに保存したのは、店へ入る直前だった。
麻婆豆腐が置かれた。赤い油の縁で、まだ小さく泡が割れている。
「火、もう落とすところでしたよね」
客が言うと、店主は布巾を畳みながら答えた。
「まだ落としてない」
それだけだった。
一口目は熱すぎて、味より先に舌が痺れた。二口目で肉の甘みが来て、三口目には花椒の柑橘に似た香りが鼻へ抜けた。四角い豆腐は辛い餡の中でも崩れず、箸で持ち上げれば、角だけがわずかに震えた。
客は退職届の画面を閉じ、代わりに明日の予定表を開いた。始業より三十分早い時刻に通知を入れ、メモ欄へ書く。
《確認したいことが三つあります、と最初に言う》
叱られることも、評価が下がることも消えない。止まったシステムも、今夜のうちには動かない。それでも、分からないまま大丈夫と言うよりは、明日の自分が少しだけましに見えた。
店主が火を落とす音がした。最後の一口はもう湯気を立てていなかったが、舌の奥には辛さと熱が、しばらく消えずに残った。