火竜騎士が眠る灰雪の湯
山道の外れに《灰雪亭》を開いた初日、女将のリーゼは夕方まで一枚の銀貨も見なかった。
日が沈み、もう湯を落とそうとしたとき、扉が蹴り開けられた。入ってきたのは火竜騎士バルドゥス。外套の縁が焦げ、吐く息まで赤い。
「眠れる湯があると聞いた。三十日、目を閉じていない」
火竜と契約した騎士は、戦のたび竜炎を身体に預かる。戦場では無敵でも、余熱が抜けるまで心臓が燃え続けるのだという。王都の治癒師は「名誉の熱」と笑い、冷水を浴びせるだけだった。
リーゼが案内したのは、庭の端にある小さな露天風呂だった。
「灰雪の湯です。冷たくはありません。熱を、眠れる場所へ戻します」
「ぬるい泥水に見えるが」
「代金は効いてからで結構です」
バルドゥスが肩まで沈むと、湯面に白い灰が浮いた。凍樹を焼いた灰である。赤かった息が、じゅっと音を立てて湯気へ変わる。胸元の竜紋から細い火が抜け、白灰の一粒一粒に包まれて消えた。
十分後、騎士は浴槽の縁にもたれた。いつもなら鎧を脱いだだけで床板を焦がすというのに、今は肩を流れる雫が普通の水音を立てている。試しに彼が掌へ小さな火を灯すと、炎は暴れず、蝋燭ほどの大きさで静かに揺れた。
「力まで失ったわけではありません。眠るあいだ、しまっておけるようになっただけです」
バルドゥスは炎を握って消し、信じられないものを見る顔で自分の手を眺めた。
「まだ、燃えているか」
「いいえ。今は身体の中が静かです」
返事はなかった。豪胆で知られる竜騎士は、口を半分開けて眠っていた。
リーゼは起こさず、湯上がり処へ毛布ごと運んだ。寝返りのたびに火花が散ることもなく、ただ低いいびきだけが宿に響く。誰も泊まらなかった客室へ初めて人の眠りが満ちたことが、リーゼには銀貨よりうれしかった。
夜明けに目を覚ましたバルドゥスは、三十日ぶんの眠気を恥じるどころか、子どものように笑った。
「この湯を、今夜も頼む」
彼は一泊分の銀貨に加え、七夜分を卓上へ積んだ。さらに竜騎士団の紋章が入った予約札まで置く。
「団長にも同じ顔をさせてやりたい」
馬の蹄音が山道の下へ消えた。リーゼが予約帳の最初の一行を撫でた、その直後。
玄関の竜鈴が、今度は二度続けて鳴った。