灰が落ちても膝をつかない

火葬谷の中央で、エリオラは片膝をつかなかった。

谷を支配する炎竜グラウゼルは、人間が目を合わせたことだけで三つの村を焼いた古竜だ。今日も生贄を受け取るつもりだった。だが祭壇の前に立った女は、両手で幼い羊飼いを背後へかばい、ただ言った。

「その子は返してもらう」

「不敬だ」

グラウゼルが息を吸う。谷の空気が赤く縮み、岩肌が先に溶けた。放たれた竜炎は祭壇を丸ごと呑み、見物していた司祭たちは歓声を上げた。

異常に最初に気づいたのは、竜自身だった。

炎の向こうから、心臓の音が一つも乱れず聞こえていた。

煙が晴れる。エリオラは同じ姿勢で立っていた。右手を前へ、左手を子供の肩へ。髪も服も焼けず、彼女の足元だけ、灰すら積もっていない。

司祭長が「奇跡だ」と叫び、次の瞬間には自分の言葉を恐れて口を塞いだ。奇跡なら神の名が要る。だが女は祈ってもいなければ、護符一枚持っていない。逃げ出した司祭の靴だけが、溶けた石に貼りついた。

「障壁か」

グラウゼルは笑おうとした。だが牙の間から漏れた声は乾いていた。人間の障壁なら、竜炎を受けた瞬間に光る。砕ける。少なくとも、守った痕跡が残る。

女には何も起きていなかった。

「今のは挨拶だ」

竜の胸にある灼熱核が開く。二度目は、山を内側から噴火させる《心臓火》。白く圧縮された炎が一直線にエリオラを貫き、祭壇の背後の崖を消した。

それでも炎が薄れたとき、彼女は右手を伸ばしたままだった。後ろの子供まで無傷で、怯えながら彼女の外套を握っている。

グラウゼルの鱗から、初めて冷たい汗が落ちた。二百年前、北の巨城を焼いたときでさえ、城壁は赤くなった。目の前の女には、熱を受けた証拠さえない。

「届いていないのではない」

エリオラが歩き出す。百年前、彼女は同じ竜に焼かれた。死なず、灰の底で目を覚ました。そのたびに身体は、死因を二度と通さない城壁へ変わった。

「届いたうえで、私に負けたのよ」

古竜は炎で鍛えた大薙刀《焼界》を尾でつかみ、恐怖を怒りに塗り替えて振り下ろした。

刃がエリオラの額に触れた瞬間、《焼界》が音を立てて砕けた。