灰冠を外した朝
王都大神殿の地下で、聖女エルネアは灰色の冠を額にはめられていた。
冠から伸びる細い鎖は、一枚の羊皮紙につながっている。そこには「祈り、治癒、生命のすべては大司祭の所有物」と記されていた。命令に逆らえば、冠が締まり、骨まで痛む。
新任の典礼監査官ヴァルドは、その契約を祭壇に置かせた。
「所有者欄を私の名に直せばよろしいのですね」
大司祭は笑った。戦場で千人を癒やした聖女を手に入れれば、若い監査官も逆らえまいと思ったのだ。
ヴァルドは羽根ペンを取った。しかし自分の名は書かない。
代わりに、契約の末尾へ一本の線を引いた。
「これは何だ」
「契約法の原則です。人が人を所有物として記した時点で、契約対象が成立しない」
彼は監査官の印を押した。
羊皮紙の文字が、端から白い炎になった。大司祭が取り返そうと手を伸ばす。だが炎は紙だけを食べ、所有者の印も、血の署名も、命令の文言も残さなかった。
ぱきん、と乾いた音がした。
灰冠が二つに割れ、石床へ落ちる。
エルネアは額を押さえた。痛みが来ないことを確かめるように瞬きをし、それからヴァルドを見た。
「次の命令を」
「ない」
「では、どこへ行けば」
「好きな場所へ。北門は開いている。旅費は神殿から返還させる」
彼女は長いあいだ動かなかった。やがて祭壇に立てかけられていた治癒杖を取り、地下の階段を上っていった。
大司祭が青ざめる。
「愚かな。あれほど便利な力を、ただ逃がしたのか」
ヴァルドは焼け跡から監査記録を拾った。
「逃がしたのではありません。帰したんです」
その日の夕刻、ヴァルドは一人で神殿を出た。大司祭の不正を王宮へ届ければ、護衛のいない彼は狙われるだろう。それでも誰も巻き込む気はなかった。
北門へ続く道の角で、白い外套が待っていた。
エルネアだった。額にはもう冠がない。治癒杖も、自分の手で握っている。
「北へ行ったはずでは」
「行き先を選びました」
彼女は杖をヴァルドへ差し出した。服従の作法ではなく、騎士が信頼する相手に武器を預けるように、横向きに。
「命令は受けません。でも、あなたの隣で、あなたが壊し損ねた理不尽を治したい」
「危険ですよ」
「だから選びました」
ヴァルドが杖を受け取ると、エルネアは一歩、彼の隣へ並んだ。
朝まで彼女を縛っていた灰冠は、地下の床で、誰の頭にも戻らない二つの欠片になっていた。