無音指定の作曲家

人気のない配信スタジオで、水科ルリは新曲『MUTE』の一回限りの初演を待っていた。

匿名作曲家〈ミュート〉から届くデモには、いつも一行だけ添えられていた。

「音を出さないで」

顔も年齢も知らない。通話を求めても返事はなく、届くのは、冷えた四つ打ちと、針のような高音だけ。それでもルリを無名の歌い手から百万再生の歌手に変えたのは、その人だった。

午前零時。再生ランプが赤くなる。イントロは無音だった。波形も平らなのに、ミックス担当の鎧塚尚が眉を寄せる。

「部屋鳴りがある。ものすごく小さい」

やがて合成声が入り、ルリは歌い始めた。Aメロの背後で、金属を三回、二回、三回叩く音がする。以前の曲にもあった癖だ。ルリは「ミュートの署名」と呼んでいた。

サビ直前、イヤーモニターに文字が出た。

「音を出さないで」

ルリは予定どおり声を爆発させた。暗いシンセが開き、低音が床を揺らす。コメント欄は速すぎて読めない。だが鎧塚だけが、別の画面で過去二十曲の金属音を並べていた。

三、二、三。二、一、四。四、四、二。

「数字だ。住所かもしれない」

最終サビ。ルリは突然、マイクから口を離した。伴奏も鎧塚が切る。全国へ流れたのは、デモの底に埋まっていた生の部屋音だけだった。

荒い息。鎖の擦れる音。遠くの電車。そして男の声。

「音を出さないで」

それは作曲家からの美学ではなかった。誰かが作曲家へ浴びせ続けた命令だった。

最後の一音だけ、異様に長い低音が残る。解析画面に、その周波数と一致する地下変電所が一か所表示された。同時に、金属音の数字列が住所へ変換される。

ルリはカメラを見た。

「聞こえました。今度は、私たちが音を出します」

配信卓の外で、鎧塚が警察への通話ボタンを押す。画面の作曲者欄から〈ミュート〉の文字が消え、代わりに救助要請の座標が点滅した。

最後の一音は曲の終わりではない。

閉じ込められた誰かが、世界を叩いた最初の音だった。