焦げ目は三つ
黒瀬茉弥が母の家を片づけ始めて、二か月が過ぎた。
家具はほとんど処分したのに、台所だけは手をつけられない。戸棚の下では、母が残した三毛猫のこはくが、尻尾を足に巻きつけてくる。
雨の日になると、茉弥は決まって蜂蜜のフレンチトーストを思い出した。母の紀江は厚い食パンを卵液へ沈め、片面に三つ焦げ目を作った。茉弥が作り方を訊いても、「パンが飲みたいだけ飲ませるの」と笑うだけで、分量を教えてくれなかった。
最後に電話をもらった日も、茉弥は仕事を理由に切り上げた。あの曖昧な言い方も、今では置いていかれた宿題のように腹立たしかった。
牛乳を多くすれば崩れ、少なくすれば中が乾く。三度目の失敗で、茉弥はフライパンを流しへ置いた。
「もう無理」
こはくが椅子へ飛び乗り、古い菓子缶を前足で落とした。散らばった紙の中に、母の買い物メモがあった。
〈六枚切りでは薄い。四枚切りを半日乾かす。茉弥は端が好き。焦げ目は三つまで〉
裏には、牛乳と卵の数字まで書かれていた。
「書いてたじゃない」
責めるように言ってから、茉弥は気づいた。母は教えなかったのではない。自分が、いつでも訊けると思って聞かなかったのだ。
翌朝、パンを窓辺で少し乾かし、卵液へゆっくり沈めた。バターが泡立ち、蜂蜜を垂らすと、甘い香りが雨音の隙間へ広がった。焦げ目は二つで止めかけ、もう一度だけ返す。
三つ目ができたところで、こはくが短く鳴いた。
端を噛むと、表面は香ばしく、中は熱い卵液を抱えていた。母の味と同じかは分からない。けれど、違っていてもよい気がした。
茉弥はもう一枚を小さく切り、母の写真の前へ置いた。
「今度は、ちゃんと聞いたよ」
こはくは写真ではなく皿を見つめていた。窓硝子を雨が伝い、台所にはバターと蜂蜜の匂いが、朝の毛布のように残った。
茉弥はメモを冷蔵庫へ磁石で留めた。数字の横へ、自分の字で〈雨の日は蜂蜜を少し多く〉と書き足す。母のレシピを守るのではなく、続けてよいのだと思うと、空いていた台所が急に自分の場所になった。