焦げ目を裏返す
真壁玲司が「火守」の引き戸を開けたのは、恋人に別れを告げられてから二時間後だった。
店内に客はいない。店主は玲司の濡れた肩を一度見ただけで、何も聞かなかった。
「生を一杯。それと、何か苦いやつ」
「注文が雑だな」
出てきたのは、万願寺とうがらしの網焼きだった。太い緑の実が炭の上でゆっくり膨らみ、薄皮がぷつんと弾ける。焦げた青い匂いが鼻へ抜け、刷毛で塗られた醤油がじゅっと白い煙を上げた。
恋人が最後に言ったのは、「あなたの予定には、いつも『仕事が落ち着いたら』しかない」だった。
旅行も、引っ越しも、両親への挨拶も、玲司は四半期の先へ送った。断ったつもりはなかった。ただ、今日より安全そうな日に置き直してきただけだ。けれど彼女にとっては、置き直され続けた時間が答えだった。
別れ話の途中、彼女は冷蔵庫に貼っていた旅館の切り抜きを剥がした。玲司が「そこ、予約が取りにくいから」と口を挟むと、彼女は初めて声を荒らげた。予約の難しさを話しているのではない、と。その紙は今も、折られたまま玲司の上着のポケットにある。
スマートフォンには、二人で共有していた予定表が残っている。再来週の日曜には「湖へ行く」とある。三度延期した予定だった。
万願寺とうがらしの片面が黒く膨れたころ、店主が火箸を持ったまま言った。
「裏返すなら今だ」
玲司は、自分に言われたのではないと分かっていた。それでも会社の休暇申請画面を開いた。再来週ではなく、明後日の金曜を選ぶ。誰かに許可を取るような気持ちで指が止まったが、申請理由には「私用」とだけ打った。
湖へは一人で行く。彼女に写真は送らない。仲直りの材料にも、反省を見せる証拠にもしない。延期してきた自分の時間を、自分で一日だけ引き受ける。
部屋には彼女の本が残り、合鍵をどう返すかも決まっていない。休みを一日取ったくらいで、失ったものは戻らない。
玲司は焼けた実を噛んだ。薄皮の下から熱い汁が弾け、舌の奥に青い苦みが残った。苦いのに、もう一口だけなら食べられそうだった。