父のほうきは音がしない
片瀬央花の父は、娘と同じ高校で用務員をしていた。
勤めていた工場が閉じたあと、ようやく見つけた仕事だった。けれど央花は入学初日に頼んだ。
「学校では、話しかけないで」
父は少しだけ目を伏せ、「分かった」と答えた。
それから父は本当に話しかけなかった。廊下ですれ違っても、黙って窓の留め金を直し、校庭では空き缶や菓子袋を拾った。クラスメートが「あの人、いつもごみ拾ってるよね」と言うたび、央花は他人のようにうなずいた。
文化祭の朝、父の手の甲に小さな切り傷があるのを見た。割れた瓶を片づけたと聞いたが、央花は絆創膏を渡せなかった。代わりに、誰も見ていない机の端へ一枚置いた。翌日、その包みだけがなくなっていた。
卒業式の前日、送別会のあとには校庭に紙コップや包装紙が散らばっていた。風が吹くたび、色紙の切れ端が転がった。
誰もいなくなった夕方、父が大きな袋を持って現れた。
ほうきは使わなかった。音を立てれば、まだ残っている生徒に片づけを促しているように見えるからだろう。父は腰を曲げ、一つずつ手で拾った。
央花は昇降口の陰から見ていた。
三年間、父はこうして、誰にも気づかれないものを拾ってきたのだ。割れた傘の骨、濡れたプリント、誰かが食べ残したパン。たぶん、央花が見ないふりをした視線まで。
風に飛ばされた銀色の包装紙が、央花の足元へ来た。
彼女は拾った。
次に紙コップ。その次は、植え込みに刺さったストロー。
父は何も言わなかった。央花も言えなかった。二人は校庭の端と端から、少しずつ中央へ近づいた。
最後の一枚を同時につかんだとき、父が手を離した。
「学校では、話しかけない約束だったな」
央花は包装紙を袋へ入れた。
「もう明日で卒業だから」
「そうか」
「だから今日は、家まで一緒に帰ろう」
父は顔をそむけ、袋の口を結んだ。耳だけが赤かった。
翌朝、卒業生たちは、妙にきれいな校庭を見て首をかしげた。誰が片づけたのか知る者はいない。
式が終わると、央花は友人たちの前で父へ声をかけた。
「お父さん、お疲れさま」
父のほうきは、今日も音がしない。
けれど央花には、その静かな仕事が、拍手よりはっきり聞こえていた。