父の介護日誌
真壁谷葉一は、父の弦造と二人で暮らしている。
弦造は近ごろ物忘れがひどい。朝になると必ず、「薬は飲んだか」と葉一へ尋ねる。自分の薬のことさえ忘れるらしい。
葉一は食卓の薬箱を開け、曜日ごとの錠剤を父へ渡す。
けれど弦造は首を振り、箱に貼られた名前を指さす。
〈真壁谷葉一〉
「また間違えてる。これは父さんのだよ」
そう言うと、弦造は悲しそうな顔で、葉一が飲み込むまで見ていた。
父が迷子にならないよう、玄関には位置情報の端末も用意した。外出前、弦造はそれをいつも葉一の腰へ取りつける。
「逆だって。迷うのは父さんだろ」
弦造は答えず、手帳へ何か書く。
〈九時 葉一、通所〉
〈十四時 葉一、診察〉
〈ガス栓、元から閉める〉
父は自分と息子の名前まで取り違えている。
毎週火曜には、介護施設の車が来る。
職員は玄関で「葉一さん、お迎えです」と呼ぶ。父を葉一だと思っているらしい。葉一は訂正するため車へ乗り込み、夕方まで施設で待つ。年寄りばかりの場所だが、皆、葉一に親しげに話しかけた。
冬の朝、弦造が台所で倒れた。
救急車は来たが、父は帰ってこなかった。
黒い服の人々が家へ集まり、写真の父へ線香を上げた。葉一には、なぜ皆が父を起こさないのか分からなかった。
翌日、地域包括支援センターの職員が訪ねてきた。
「お父様は、長いあいだ葉一さんの主介護者でした。これからは一人で暮らせません」
「介護されていたのは父です」
職員は机の手帳を開いた。
葉一の食事、排泄、徘徊、服薬忘れ。弦造の字で、七年間の記録が残っている。
「葉一さんは若年性認知症です。お父様が毎日、介護していたんですよ」
職員は翌朝、迎えに来ると言い、玄関の鍵を内側から掛けるよう念を押した。
夜、葉一はいつもの介護日誌を書いた。
〈父、薬を拒否〉
〈父、同じことを何度も言う〉
〈父、今日も帰宅せず〉
十時になると、二階から弦造の声がした。
「葉一、薬は飲んだか」
葉一は安心して薬箱を開けた。
階段には、葬儀の日から誰の足跡もついていない。