片袖の陣羽織

雨は、焼けた観音堂の屋根を細い釘のように打っていた。

香取源吾は堂前の橋に立ち、向こう岸から来る二人を見た。塩見兵部の手勢が連れているのは、主君の嫡子・慶若。こちらが渡すのは、敵の軍師・梁瀬道鬼だった。

どちらも頭巾で顔を隠され、口を猿轡で塞がれている。顔を確かめるのは橋の中央、互いの縄を同時に切る時だけ。それが兵部の出した条件だった。

慶若らしい小柄な人影は、紺の陣羽織を着ていた。源吾は右の腰に手を置く。そこには、同じ布で作った片袖が巻いてある。

半年前、慶若が捕らわれた退却戦で、源吾は脇腹を槍に抉られた。十二歳の若君は泣かずに陣羽織の左袖を切り、傷へ巻いた。

「返す時は新しく縫ってやる」と笑った声を、源吾だけが覚えていた。

橋の中央へ十歩。敵の人質は両袖の揃った陣羽織を着ている。

兵部が雨笠の下で言った。

「縄を切れ。顔はそれからだ」

「その若君は返してもらえぬ」

源吾が答えると、敵兵の槍先が一斉に上がった。味方の弓も軋む。道鬼は頭巾の下で低く笑った。

「小者が何を知る」

源吾は腰の片袖を橋板へ落とした。泥と古い血で黒く固まっている。

「本物の羽織に、左袖はない」

兵部の目が一度だけ細くなった。偽者の肩が震えた。源吾はそこを見逃さなかった。

「若君はもう死んだ」と兵部が言う。

「なら道鬼の首を持ち帰れ。交換は終わりだ」

源吾は刀を抜かず、道鬼の背を橋の欄干へ押した。首へ当てたのは、片袖を切った時に慶若から預かった小柄だった。

道鬼の笑いが消えた。

兵部は軍師を惜しむ。だから偽者を使った。だが源吾が怒って斬りかかれば、橋下の伏兵が射る手筈でもある。動いた方が負ける。

雨音だけが長く続いた。

やがて兵部が顎を引いた。後ろの兵が偽者を退かせ、もう一人を連れてきた。裸足で、左肩の羽織が根元から失われている。

頭巾が外れた。痩せた慶若は源吾を見て、口の端だけで笑った。

源吾は道鬼の縄を切った。同時に敵兵も若君の縄を切る。二人はすれ違い、互いの陣へ歩いた。

慶若が橋を渡りきるまで、源吾は振り返らなかった。背後で道鬼の足音が土へ移った時、城壁の上から法螺貝が鳴る。

源吾は片袖を拾い、若君の肩へ掛けた。

「西門を開けろ」

城代の命令が、雨の城へ走った。